2020-11-19 第203回国会 衆議院 安全保障委員会 第3号
○照屋委員 大臣、この旧牧原集落は、かつて琉球王府の牧場だった。廃藩置県前後に失職した士族が入植し、開墾して形成されました。終戦後、全域が米軍に接収されたんです。だから、戦後七十五年たって、どうか、旧牧原住民の願いを実現できるように、大臣に再度決意を伺いたいと思います。
○照屋委員 大臣、この旧牧原集落は、かつて琉球王府の牧場だった。廃藩置県前後に失職した士族が入植し、開墾して形成されました。終戦後、全域が米軍に接収されたんです。だから、戦後七十五年たって、どうか、旧牧原住民の願いを実現できるように、大臣に再度決意を伺いたいと思います。
続きまして、首里城についての最後の質問なんですが、首里城というところは、四百五十年の琉球王国の歴史の中で、政治、経済、文化、外交といったものの拠点でもあり、また、歴代の琉球王の、またその家族の生活の空間でもありました。
首里城の周辺には、第二尚氏王統の菩提寺である円覚寺、それから、国王の世継ぎの屋敷である中城御殿や琉球王府の迎賓館に当たる御茶屋御殿など、これも未整備のままであり、これらの史跡も整備すべきという、専門家や地元住民は強い要求を出してまいりました。その要求を出している人々が首里城の再建を支えていく人々でもあります。
その廃藩置県の際に、琉球王府が明治政府に対して一番抵抗したのは、明治政府が熊本の第六師団の分遣隊を沖縄に常駐せしめるということだったわけです。それからもう一つは、中国との関係を断ち切れということだったわけですね。
それは、かつて琉球王府の時代に万国津梁の鐘に刻まれておるあの心意気といいますか、その気概が二十一世紀の今日の沖縄振興二十一世紀ビジョンに具体化されてきておると、こういうふうに受け取ったからであります。
どうしてこういうことを申し上げるかといいますと、大臣、実は明治十二年に廃藩置県があって沖縄が日本に併合されたときに、明治政府の一体化政策に対して琉球王府が二つの点だけどうしても言うことを聞かなかったことがあるわけです。
これは十八世紀の琉球王府時代の政治家蔡温であります。ライオンではありません。蔡温でありますが、具志頭親方が詠んだ歌でありまして、この蔡温は琉球王府の財政の立て直しに大きな力を発揮した方でございます。
このようなことを尚泰久王は一四五八年に、コロンブスのアメリカ発見が一四九二年ですので、これはそれよりも三十五年前にこのようなことを言って、沖縄の地理的な位置を生かしての、いわゆる琉球王国立国の国是としてきたわけでございます。そのようなことが沖縄県民の血の中には脈々と生き続けている。そういう国際性豊かな県民性を活用するということが今回の国際交流の拠点形成だと私は考えているわけでございます。
ペルリのことでございますが、ペルリが幕末に日本に參ります頃やはり先に琉球に參りまして、そうして琉球王國とアメリカ政府の名においてペルリが一種の協約を結んでおります。
○委員長(佐藤尚武君) 一つお伺いしたいと思いますのは、琉球というのは、今のお話でも、琉球王國ができたその島である。奄美大島は、明治初年にはいわゆる琉球王國の中に入つていなかつた。それから又もう一つは「沖繩」という言葉は何處から出て來たのでありますか、縣を設置したときに初めて沖繩縣となつたのであるか、或いは元からそういう言葉があつたのでしようか。
サレバ、新日本ヲ建設セル明治政府ノ慫慂ニ依リ、琉球最後ノ藩主尚泰カ欣然全沖繩ヲ挙ケテ明治政府ノ傘下ニ参加、旧琉球王國ヲ解体セルハ宛ラ父母ノ家ニ帰宅セルト同然、極メテ自然ノ道程ヲ辿リタルモノト言ヒ得ク、何等日本ノ強要或ハ武力ニ屈シタルモノニ非ラズ、日本ノ台湾占領有朝鮮併合トハ大イニ趣ヲ異ニスルヲ御諒承相成度、沖繩ハ明治政府治下ニ入リテ、教育普及、産業勃興、日本本土同ノ航路モ定期船ニ依リ至便トナリ、更ニ