2016-10-20 第192回国会 参議院 法務委員会 第2号
あるいは、そんな辞書を引くまでもなく、第一次の琉球処分、明治五年ですけれども、それ以前から日本の本土は、琉球、沖縄の人たちに対して、琉球国王を酋長、そこに住む人たちを土人、このように言ってきた。そういう長い日本と、本土と沖縄との関係の中で、土人という差別の侮蔑した言葉というのが連綿と歴史的に構造的に続いてきたわけですよね。
あるいは、そんな辞書を引くまでもなく、第一次の琉球処分、明治五年ですけれども、それ以前から日本の本土は、琉球、沖縄の人たちに対して、琉球国王を酋長、そこに住む人たちを土人、このように言ってきた。そういう長い日本と、本土と沖縄との関係の中で、土人という差別の侮蔑した言葉というのが連綿と歴史的に構造的に続いてきたわけですよね。
ところが、そういうことを背景にして、明治維新の廃藩置県のときに、明治政府が熊本の軍隊を沖縄に常駐せしめると言ったから徹底して反対したわけなんですが、明治政府は、どこに軍隊を置くかというのは国が決めるべき問題であって他からくちばしを挟む問題ではないといって、熊本の軍隊を四百人と警察官を百六十人余り連れてきて、首里城を占拠して、琉球国王の尚泰王を東京に引っ張っていって麹町に住まわせたわけなんですね。
守礼門というのは、四百年前、何度も言うようですが、明の使節がいわゆる琉球国王のところに赴くときに、首里城からまさに琉球国王が出て、守礼の門で中国、明国に忠誠を尽くすという、土下座したかどうかは知りませんが、少なくも服従の意を表した、まさにその門なんですよね。