1995-03-28 第132回国会 参議院 逓信委員会 第7号
私も当然、日本陸軍の最後の現役兵として六カ月兵隊に行きましたけれども、あのころのことを思い返すと、それこそ亡くなった方に対する無念の思いというのがいっぱい出てまいります。そういう意味でこしらえた番組でありますことは御承知をいただきたいと思います。
私も当然、日本陸軍の最後の現役兵として六カ月兵隊に行きましたけれども、あのころのことを思い返すと、それこそ亡くなった方に対する無念の思いというのがいっぱい出てまいります。そういう意味でこしらえた番組でありますことは御承知をいただきたいと思います。
そして、昭和十六年十二月大学を卒業するとともに、外務省に入られたのでありますが、入省後間もなく臨時現役兵として終戦まで軍務につかれました。我が国が敗戦を迎えるや、先生は外務省に復帰され、終戦連絡中央事務局の連絡官としてGHQとの折衝に当たられましたが、占領軍からの次々に不当とも思えるような重なる要求の押しつけ、そういうものに敗戦国の悲劇を身をもって痛感をされたようであります。
したがいまして、現役の兵力に比べて、例えばスイスなんかが一番極端な例だと思いますけれども、現役兵が二万人に対して六十数万人というような予備役を持っているということでありますが、我が予備自衛官制度というのは、そういった予備自衛官制度を使って作戦兵力、いわゆる正面兵力と従来申しておりますが、それを何倍かに、あるいは五割増しかにするという考え方というよりも、現在の編成そのものを十分に働かせるために使うというのにとどまっていると
昭和二十年七月、現役兵として入隊された田口君は、大刀洗航空隊に幹部候補生として配属されましたが、間もなく迎えた終戦により、君は、まさに九死に一生を得て復員されました。 田口君は、青春の日々を戦火のもとで、さらに戦後の混乱の中で過ごされ、君の平和に対する希求、社会の安定に対する願いが特に強かったのも当然のことであったと申せましょう。
それから、軍隊の短期現役兵という五カ月の特典があった。そして五カ月終わると第二国民兵役に編入されて、戦争のとき行かぬでもいいようになっていた。だから農家の長男とかよく行ったんですが、ところがそれを剥奪するということでありました。私自身も剥奪されたわけです。だからこの太平洋戦争には四年間行ったわけですけれども、そのことは構わない。
○別府政府委員 先ほども少々調べたいということを申し上げましたが、ただいま大原委員のおっしゃいました点につきましては、内田厚生大臣代理のほうから御答弁ありましたように、兵役に服するというのは、具体的に——私も実は軍隊に行っておったわけでありますけれども、現役兵あるいは召集兵として兵役に服するという事態が生じないと現実に問題が起こらないと思います。
しかもこれを持っておった米軍の年ごろは、これは私が直接会ったのじゃありませんが、二十五ないし二十六歳ぐらいに見える現役兵が持っておった。しかもこれは使ったばっかしのからになった注射器です。何でCS1の処理をするときに神経性ガスの解毒用の注射器を持ってそれを使わなきゃいけないのか。どう考えてみても、これは米側の説明というものを私どもはそうですがと受け取るわけにはいかない。
航空機製作所には、現役兵として海軍に入営されるまで在籍され、入営後は選ばれて呉の通信学校に第五十四期生として入学され、通信兵として服務後、昭和二十年秋に復員されました。 復員後、再び三菱重工業名古屋機器製作所に復職されました。
国内の問題については、御承知のように州兵、あるいは予備兵力、そういったものをなるべく増強して現役兵というものをなるべく縮小する、そうしてそういうものをあわせて国内におけるアメリカ自身の防衛力として維持をしていく。アメリカ自身のと申しましたが、対外援助も含めての、アメリカとしての防衛力を維持をしていく。
これは現在兵庫県に住んでおる人でございますが、これは六年間現役兵として海軍につとめた人であります。その後に十二年六カ月間京都府の巡査として在勤をしたのであります。ところが、この方が警察官と軍人の通算をやりまして、十八年という形において文官恩給を受けておりますが、八万二千八百八十円の恩給を受けておるわけでありますが、この方はたぶん軍人では軍曹くらいの方だと思います。
また、その経過のことなんか見てみましても、「訴願人は、昭和十四年十二月一日現役兵として歩兵第三十二連隊留守隊に入隊し、昭和十五年二月十一日以来支那方面において軍務に服し、昭和十八年十一月二十日内地帰還、」そうすると長いですね。それから、「同年十一月二十八日現役延期解止除隊により旧軍人を退職したものである。」こういう。
もちろん師範学校に対するいろいろな見方がありますけれども、師範学校卒業生に対しては、国民の二大義務ともいうべき兵役の義務も五カ月短期現役兵ということで免除しておった。これは大きな優遇であるわけです。いまから見ればとうてい考えられぬような優遇をしておった。あるいは初任給におきましても各県ばらばらでありましたが、米が一俵七円二、三十銭するときに初任給が五十円内外であった。
それから営内に居住すべき者という場合におきましては、法令その他特別の根拠によりまして、営内に居住することが義務づけられておる者ということでありまして、たとえば陸軍について申し上げれば、御承知の通り兵役法で現役兵は現役中これを在営せしめる、こういうような規定がございまするので、兵は少くとも在営義務がある、かように考えていいかと思っております。
それが沖繩の状態が切迫して学校が閉鎖になりましたときに、入営延期の取り消しをいたしまして、正式に現役兵として入営せしめたのでございます。その他の者につきましては、当時現地においてどういう形式、どういう手続でやったかということを調べておりますが、まだ全貌がはっきりいたしませんので、私どもこれを研究いたしてみたいと思っておる次第でございます。
実は鉄血勤皇隊の中にも二十年三月一日定時の入営の現役兵が入っているわけです。こういう人は当然軍人としての処理をしなければならないのでございますが、この人がどの人であるかということがまだしっかり握れておらないわけなのであります。そういうような関係でまだ身分の決定ができておりませんので、従ってあとの業務が進まない、こういう状態でありまして、事実の調査ということが先行をしているわけであります
そういたしまするというと、昔の現役兵の兵隊と同じようなものがたくさん入っておるわけであります。
○参考人(湯浅質治君) 自分は昭和十二年に現役兵として満州のハイラルに行きました。そうして病気で一年八ヵ月入院しまして、現役免除となつて帰つて来ました。それから華北交通の軍属として、そうして八月四日に現地召集を受けました。
これは召集または現役兵の入営と何らかわつたところはないのでありまして、下士官兵にだけ限定するということも実情に即しないし、またわれわれ裁定をいたしております実際の状況を見ますと、戦地においてビルマ作戦に最初から参加し、非常な武勲を立て功績を立てまして、最後に捕虜となつて公務とは考えられない病気によつてなくなつておられる、こういう将校の方もおられますので、下士官兵にだけ限定して昔の制度を復活するということよりは
ことに一昨日富士銀行千住支店において銀行ギヤングが起りまして、これも目撃者の談によりますれば、外国人、ことに米軍の現役兵のようであつた、かように聞いておるのでありまするが、先ほど不幸にして国務大臣はおいでにならなかつたが、法務府の総裁並びに係官に聞きますると、いわゆる占領軍の兵士及び軍属にしてこのような事件を起したものは相当数あるということでございます。
いわゆるかつての乙種幹部候補生であつていわゆる将校になれなかつた、反軍闘争に大きな一役を担つた人たち、そういつた人たちがすぐ服を着たことをたたいた後は、大体実際に若い義勇隊から入ソした人たち、あるいは現役兵で若い人たちが加わつた時期には、そういつた服装は少しずつ消えて行きましたが、いわゆる民主運動の過程においては收容所内における労働貴族というものは、そういう……。(発言する者あり)