2019-11-22 第200回国会 衆議院 厚生労働委員会 第6号
朝鮮半島出身、台湾出身等の軍人軍属がともに戦場で戦い、また、さらには満州国軍、南京政府軍、あるいはインドネシア郷土防衛義勇軍、またビルマ独立義勇軍、インド国民軍なども日本軍とともに同じ戦場で戦い、傷つき、亡くなられているわけでございます。 これらの方々の遺骨もモンゴロイドとして混在しているのではありませんか。重ねて答弁を求めます。
朝鮮半島出身、台湾出身等の軍人軍属がともに戦場で戦い、また、さらには満州国軍、南京政府軍、あるいはインドネシア郷土防衛義勇軍、またビルマ独立義勇軍、インド国民軍なども日本軍とともに同じ戦場で戦い、傷つき、亡くなられているわけでございます。 これらの方々の遺骨もモンゴロイドとして混在しているのではありませんか。重ねて答弁を求めます。
当日になりましたら今度は、独立義勇軍とかなんとかという右翼を名乗る人たちからまた、刺客を送り込んだとか爆弾を仕掛けた、いろいろなことが来たものですから、東京都の方が慌ててしまいまして、当日になって警察を呼んだんですね。物すごい数が来たんですよ。 私は最初知らなかったんですね。そうしたら、担当者の方が私のそばに来て、辛さん、警察を呼びましたからもう大丈夫ですと言うんですね。
スハルト大統領は、PETA、インドネシア独立義勇軍のもとで、今でも沼津に御存命の土屋陸軍大尉に指導を受けた方ですから、その大使館前を毎日通る、そして日本はどうなっているんだと言うらしいです。なぜか。大使館の菊の御紋章が真っ黒で汚れたまま。こういうことです。
あるいはビルマでも独立義勇軍の最高勲章、建国栄誉勲章、こういう方々もおられるわけであります。そしてまたインドネシアのあの独立戦争に、戦争に敗れたけれども自分たちが一生懸命独立軍を訓練してきた、このままでは日本に戻るわけにいかないと一緒に部隊を離れて独立軍に入って三、四百名といわれる方々があそこで戦死している、戦後ですね。
これまでの捜査の結果、本件犯行は、日本民族独立義勇軍別動赤報隊と称するものによる犯行であろうということは判明いたしておるわけでございますが、これまでの全国捜査にもかかわらず、その組織の存在等、実態につきましてはいまだ把握するに至っておらないという状況でございます。
過去に日本民族独立義勇軍名下で犯したと思われる事案はどのくらいあるのか、こういった御質問でございますが、私ども承知いたしておりますところでは、五十六年に一件、五十七年に一件、五十八年に三件、合計五件の事実を確認いたしております。
○安藤委員 もう一つ、この朝日新聞社に対する襲撃事件の関連で、時事通信社あるいは共同通信社に対して先ほどお話があった日本民族独立義勇軍別動赤報隊なる、これは右翼団体だと思うのですが、先ほどの捜査一課長の話によると犯行声明もどきだというふうにおっしゃったのですが、これも重大な資料になると思うのです。
○小杉説明員 今御指摘の問題につきましては、なるほど日本民族独立義勇軍なる名前を犯行声明等で名のってはおりますけれども、果たしてその日本民族独立義勇軍なるものがやったのかどうか。今は悪乗りの時代でございますので、一つの事案があるとあたかもおれがやったというような声明みたいなものが随分出てくるわけでございます。
については御案内のとおりでありますが、警察といたしましては当日直ちに百十名の態勢の捜査本部を設けまして、主な捜査方針といたしましてはもちろん地取り捜査の徹底あるいは鑑定、鑑識資料に基づく捜査、それから動機面の捜査、さらには現場を中心とした地取り捜査の徹底、こういうことを掲げまして所要の捜査を進めてまいったのでありますけれども、五月の六日に至りまして、これも御案内かと思うわけでありますが、日本民族独立義勇軍別動赤報隊
○説明員(鹿嶋正之君) 日本民族独立義勇軍名下で行われました過去の事件につきましては、五十六年それから五十七年、五十八年この三カ年にかけまして合計五件の発生を見ているところでございます。それにつきましては、以来現在に至るまで、鋭意捜査を継続中のものでございます。
○橋本敦君 警察庁は、今あなたがお話しになりました脅迫文とも見られる声明文を送った独立義勇軍、右翼と見られますが、これの解明は指示してやらせておられますか。
地元兵庫県警察におきましては、事件認知後直ちに所轄西宮警察署に百十名から成る捜査本部を設置しまして、以来、現場検証、関係者からの事情聴取、本件犯行に使用されたと認められます散弾銃の捜査、採取資料の分析、現場周辺における聞き込み等所要の捜査を行っておったわけでございますが、ただいま先生御指摘のように、昨五月六日に至りまして、日本民族独立義勇軍と名のる団体から、いわゆる犯行声明とも受け取れます文書が一部報道機関
それで自分たちは、オランダ人の申し送りを経て、造兵廠関係の者は造兵廠に入り、あるいは各人が任務につきながら、独立が完成するまで任務に邁進して、五二年までインドネシア独立義勇軍として勤務しておりました。 その後、大体オランダ人やいろいろな者がそこから追放されて、軍の方は、ほとんどオランダの軍人は一人もいなくなって、インドネシアの軍隊ばかりになりました。
たとえば、バンドン地区内で独立義勇軍になった人とか、あるいはジャカルタ地区内とか、中部ジャワ、西部ジャワとか、大きく分ければ大体四つに分れていますが、こまかく分ければたくさんあります。