1980-11-05 第93回国会 衆議院 安全保障特別委員会 第4号
ただし、私は一言だけそこにつけ加えておきたいと思いますのは、しゃにむにすきあらば出ていこうという面をわれわれは一面に見るのですが、その反面に、私、今度キエフに参りまして、キエフは二年間独ソ戦争でヒットラーのドイツの軍隊に占領されておりまして、そしてその間に大変なヒューマントラジディーを経験したところなんですね。 御承知のとおり一九四一年七月の終わりに占領されて、二年間占領されておった。
ただし、私は一言だけそこにつけ加えておきたいと思いますのは、しゃにむにすきあらば出ていこうという面をわれわれは一面に見るのですが、その反面に、私、今度キエフに参りまして、キエフは二年間独ソ戦争でヒットラーのドイツの軍隊に占領されておりまして、そしてその間に大変なヒューマントラジディーを経験したところなんですね。 御承知のとおり一九四一年七月の終わりに占領されて、二年間占領されておった。
一九四一年に、独ソ戦争と同時に、米英首脳によって大西洋憲章が発表された。そして、この戦争では領土は取らぬ、賠償も取らぬ、こういう原則を発表し、それの精神がカイロ宣言なりポツダム宣言なりに受け継がれて、この戦争では賠償も取らぬ、領土も取らぬという原則が実施をされたわけです。
もう一つは、独ソ戦争が起こるときの御前会議の決定なんというものを考え出したり、あるいは戦争中の総動員体制のあの制度というものをそのまま考えてみたりするこの頭というもの、これは、私はやはり戦前の旧軍人の古い思想というものがそのまま生きている面だと思うのです。そのまま生きている面、それとアメリカの考え方、その両方がミックスされたような思想だと思うのですが、両要素とも非常に危険だと思うのです。
そうして一九四一年六月二十三日に、ドイツは突然大軍をもってソ連に攻撃を加え、ここに独ソ戦争が勃発した、と書いてありますが、このあたりを、もっと具体的に独ソ開戦の理由を書けという修正要求が出ておりますが、それは具体的には、ソ連の進出がドイツを刺戟したために戦争が起こったのではないかという意見が示されたそうであります。
しかるに、最近のフルシチョフ首相の発言を見ておりまするというと、単にウィーンにおける会談における場合のみならず、その後しばしば、たとえば、私の記憶によりますと、六月二十一日の独ソ戦争記念日の日における演説、それから数日において行なわれたカザフ・スタンにおける演説、そのほかしばしば演説をいたしまして、本年の晩秋の候と申しますか、終わりごろまでには単独を結ぶということを言明しておるわけであります。
かつて独ソ戦争の最中に日本の関来車はシベリア出兵を計画いたしました。あわよくばソ連牽制の大兵を動かすことを計画いたしました。
勲章というものは、先刻も申し上げましたように、普通の人のなし得ない、文化国家、福祉国家建設に大きな貢献をした人を表彰する、尊敬する、こういうものでありますならば、たとえばソ連においてジャガイモ栽培で世界記録を作った、これは並々ならぬ苦労があっただろう、その者に対しては、独ソ戦争で勲功があった大将と同じような最高勲章を与えられておるように、農業界において東北、北海道の寒冷地帯においてこれに耐え得る種苗
○中田吉雄君 併しです、御承知のようにフイランドは第一次大戦にはカイゼルにだまされて、ドイツにつけば安全を保障してやると言われて、間髪を入れずひどい目に会い、第二次大戦にはそれにも性懲りなしにリツペントロツプにだまされて、もう第一次大戦のようなことはないから一つ軍事基地を貸せということで貸して、独ソ戦争が起きたら直ちに対ソ宣戦の布告をやつて、そうして安全が脅かされて、もう外国に安全の保障を頼むべきものでないという
それは、日本が日ソ不可侵条約を結んでおきながら、独ソ戦争が起きたので、直ちに御前会議を開きまして七月二日に近衛文麿公主催の下に開いて対ソ作戦を準備するという決定を御前会議でやつているわけであります。私はこれを見て愕然としたわけであります。それは、こういう決定をしているわけであります。