2006-12-01 第165回国会 参議院 教育基本法に関する特別委員会 第7号
そういうようなことから、物質中心主義、さらには命の尊厳の軽視等々、教育の荒廃、また最近に至るいろいろなゆゆしい状況が起きていると。 一方では、政教分離、信教の自由という輝かしい我が国憲法の原則がございますけれども、それを、その精神を十分理解されずに、非宗教性、無宗教、そういうようなことがむしろ社会が進化した状態ではなかろうかというような考え方が進んでまいりました。
そういうようなことから、物質中心主義、さらには命の尊厳の軽視等々、教育の荒廃、また最近に至るいろいろなゆゆしい状況が起きていると。 一方では、政教分離、信教の自由という輝かしい我が国憲法の原則がございますけれども、それを、その精神を十分理解されずに、非宗教性、無宗教、そういうようなことがむしろ社会が進化した状態ではなかろうかというような考え方が進んでまいりました。
ドストエフスキーは、もし神がなければすべて許されると言いましたけれども、物質中心主義で宗教を軽く考えていては、心の教育の一番大事なところに手が届かないというふうに考えております。
三番目は、「科学技術文明のもたらした物質中心主義と心の不在、自然との触れ合いの希薄化、生命を尊重する心の不足などの問題がある。」四番目に、「明治以降、欧米諸国へ追いつくことを国家目標の一つとし、教育も先進国の科学技術、制度の導入などを急速に推進するため効率性を重視し画一的なものになった。近年の我が国の教育は時代の変化と社会の要請に立ちおくれている。」こういうふうに出ているわけです。
○海部国務大臣 御指摘のように、戦後の歩みの中に新しい国家目標をつくって、それがまず追いつき追い越したいという物質中心主義的な偏りがあったこと、豊かになりたいという願望があったこと、戦後のあの混乱期にはそれは間違いなくすべてに受け入れられたのですけれども、次第に皆さんの御努力や社会情勢の変化で物質的なものが満足された今日、私どもから言わしむれば、人間の心とか、あるいは精神とか、あるいは日本人としての
ですからこの答申におきましても、例えば「物質中心主義と心の不在」とかいうようなことを指摘してありましたり、それからいろいろと思いやりの精神でありますとかそういうようなことを大いに強調しておられます。このことは私は教育基本法の精神がよくまだ教育界でもって理解されていないからそれをしっかりやろうということだろうと思いまして私は結構なことだと思うわけです。
そういう個々の要因というものは明らかにしておりますけれども、さらに、その背後といいますか根底に、近代科学技術文明の発展によりまして、物質至上といいますか物質中心主義となりまして、人間の心というものがおろそかになっておるということ、それから実証することのできるものとか数量化の可能なものを偏重して、いわゆる浅い意味の学問、学科というのでしょうか、数量化可能なものを偏重して、さらに崇高なものがあるというようなことへの
ごく最近のものでは、昨年の七月「校内暴力の実態と文部省の施策について」その「はじめに」というところに、「校内暴力等の問題行動の背景には、家庭の在り方をはじめ、物質中心主義の社会的風潮、急激な社会環境の変化、学校における指導の在り方など種々の要因が複雑に絡み合っている。」こういう表現になっているのです。私は、これでは平板的であり、並列的であり、核心に触れてないという感じがしてならないのです。
○国務大臣(森喜朗君) ベビーホテルのことについて文部大臣がお答えをするのは所管であるかどうかちょっと迷うわけでございますが、ただ、先生が御指摘をされた点は、やはり物質中心主義になっている今日的世相に対する厳しい御批判であろう、それについて教育の任にある文部大臣はどう考えるかということであろうかと思います。
文部大臣、私、先ほど来申し上げましたような、いまの日本の戦後の足取りを顧みるときに、物質中心主義に偏り過ぎておる。経済至上主義、権力依存主義、こういうような形に教育がゆがめられようとしておる。そこで、大学の入学試験のむずかしいものが持ち出されて、それに耐え得る人だけが残って、しかも学歴社会としてその修得を得た者だけが社会で用いられるというような、こういう社会にいまなっておるわけです。
本土並みということばは聞こえはよいが、従来の概念による物質中心主義の方式の開発を適用することは、ほんとうに沖繩の繁栄をささえるとは思えないのであります。 ここ数年間、私どもは民間人として毎回の沖繩経済振興懇談会に参加し、また一方、現地の企業経営に携わる人々と何回となく交流を重ねてまいりました。