1979-03-01 第87回国会 衆議院 社会労働委員会 第6号
そして、ほとんど直ちにでありますが、昭和十三年の七月二十八日に満州国牡丹江省寧安県寧安満州開拓青年義勇隊訓練所第十中隊酒井中隊に入隊、そして一定の訓練を終えて、途中を省かしていただきますけれども、約三年後、昭和十六年十月に今度は満州国東満総省勃利県大東第一次大東義勇隊開拓団訓練所に移行、こうなっております。開拓団にきちっとした訓練所がやはりあったのですね。これは調べていらっしゃいますか。
そして、ほとんど直ちにでありますが、昭和十三年の七月二十八日に満州国牡丹江省寧安県寧安満州開拓青年義勇隊訓練所第十中隊酒井中隊に入隊、そして一定の訓練を終えて、途中を省かしていただきますけれども、約三年後、昭和十六年十月に今度は満州国東満総省勃利県大東第一次大東義勇隊開拓団訓練所に移行、こうなっております。開拓団にきちっとした訓練所がやはりあったのですね。これは調べていらっしゃいますか。
これをごらんいただきますとおわかりになると思いますけれども、北辺の防衛拠点、東安省でありますとか、三江省でありますとか、興安北省でありますとか、間島省、牡丹江省、黒河省、こういうふうな関東軍の北辺の防衛拠点に集中して開拓団は配置されたのであります。いっか関東軍の参謀が申しておりましたが、北満に日本の開拓者の人がきを作ってソ連を防衛するのだ、こういことを公言いたしているのを聞いたことがございました。
昭和十九年三月十日召集を受けまして満洲の牡丹江省城子溝という所の二千六百部隊に入隊をいたしました。その城子溝に約一箇月おりまして、わが隊は命令を受けまして新京に集結することになりました。その後間もなく自分たちは加藤久平という陸軍大尉の率いる駐屯部隊となつて吉林におもむきました。
牡丹江省及びその周辺に七百、それから仙洞五十、鳳山炭鉱これは七十、それから難西淡鉱千三十、東安これは附近も含みまして千五十、佳木斯三百、鶴岡炭鉱千、その他八百で、以上は概ねであります。合計して六千であります。