1950-11-30 第9回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第3号
その中の、満洲の大体日本人分布の状況を簡單に申しますと、瀋陽地区、奉天地区でございますが、これが約八千名、通化地区が約千六百名、間島地区が千三百名、牡丹江地区が約九百名、東安地区が二千八百名、三江地区が約三千名、龍江地区が千六百名、浜江地区が三千五百名、錦州地区が二百七十名、その他熱河地区に四百名、安東地区で三千名、黒河地区に五十名、吉林地区の三千名、興安地区の千六百名、北安地区の千名、旅順、大連地区
その中の、満洲の大体日本人分布の状況を簡單に申しますと、瀋陽地区、奉天地区でございますが、これが約八千名、通化地区が約千六百名、間島地区が千三百名、牡丹江地区が約九百名、東安地区が二千八百名、三江地区が約三千名、龍江地区が千六百名、浜江地区が三千五百名、錦州地区が二百七十名、その他熱河地区に四百名、安東地区で三千名、黒河地区に五十名、吉林地区の三千名、興安地区の千六百名、北安地区の千名、旅順、大連地区
それから間島地区が約千三百名、牡丹江地区が約千九百名、東安地区が約二千八百名、三河地区が約三千名ないし四千七百名、龍江地区が約午六百名、浜江地区が約三千五百名、錦州地区が約二百七十名、熱河地区が約四百名、安東地区が約三千名、黒河地区が五十名、吉林地区が三千名、興安地区が千六百名、北安地区が千名、族順、大連地区が約千二百名、こういうことになつております。
この間一昨年の七月だつたと思いますが、ハルピン地区、牡丹江地区におきまして、日本人ををぜひひとつ早く帰してほしいという運動を、政府筋に日本人の有志がやつたわけでありますが、政府としては、それはいかない、いわゆる反動だ、中共政府に協力しないというふうなことで、ハルピン、牡丹江地区で約百名が收監されたわけであります。
それからいなかの方に三々伍々しておりました者は、還送が一日遅れ二日遅れて漸次牡丹江地区に出て来たのでありますが、これらの者をある時期にはまた返すのだということにして、当初むりやりに残しておいた。
○江口参考人 先刻も私申し上げましたように、一昨年の七月、ハルピン、牡丹江地区におきまして、これは先刻申し落しましたが、当時圖們方面におきまして、日本人を朝鮮経由で帰すといううわさが、あちらこちらにとんだわけです。それをまことにとりまして——また事実そういうこともあつたというふうなことも聞いておりますが、これは私はつきりわかりません。
併しながら私は出発の折五万円の救済金を持つておつたのでありますが、そのうちから準備金を一万円だけいれまして四万円、その中から列車中でソ連の将校のために無理やりに金を強奪されまして、五千円程強奪されたのでありまして、実際に難民救済金として牡丹江地区に持つて行つたのは三万五千円であつたのであります。そうして私共は十月四日の夕刻牡丹江に着いたのでありました。
牡丹江地区は非常に終戦当時混乱の状態にあつたようでありますが、実は在外公館借入金の確認という法律が当委員会も非常に問題にいたしまして通過いたした次第であります。そこで、牡丹江の資料が非常に乏しいということを我々は承つておるのですが、この点について簡單で宜しうございます。こちらへ帰つて見えまして、それは集められるか、資料として提出されるものがあるかないか、お答え願いたい。