2008-12-12 第170回国会 衆議院 安全保障委員会 第3号
ところで、沖縄戦の犠牲者を慰霊する、追悼する慰霊の日が六月二十三日に行われていますけれども、旧日本軍の第三二軍の牛島満司令官あるいは長勇参謀長などが祭られた黎明之塔というのがあるんです、軍の司令官のですね、その黎明之塔で、早朝、自衛隊による慰霊祭が毎年行われているんですよ。ことしは、陸上自衛隊の第一混成団の団長、それから同広報室渉外担当十四人が制服姿で参加し、献花し、参拝して慰霊しておりました。
ところで、沖縄戦の犠牲者を慰霊する、追悼する慰霊の日が六月二十三日に行われていますけれども、旧日本軍の第三二軍の牛島満司令官あるいは長勇参謀長などが祭られた黎明之塔というのがあるんです、軍の司令官のですね、その黎明之塔で、早朝、自衛隊による慰霊祭が毎年行われているんですよ。ことしは、陸上自衛隊の第一混成団の団長、それから同広報室渉外担当十四人が制服姿で参加し、献花し、参拝して慰霊しておりました。
また、牛島満第三二軍司令官は、沖縄に着任するや、現地自活に徹すべし、一木一草に至るまで戦力化すべしと訓示し、戦闘に必要なものはすべて現地調達せよと、学校、民家を次々接収し、食糧は供出させました。住民は、老若男女、国民学校の学童まで徴用され、飛行場建設、陣地構築、ごう掘り、物資や弾薬運搬などに従事させられました。
六月二十三日、御承知のように、沖縄の守備に当たっておりました第三十二軍の軍司令官牛島満中将と軍参謀長長勇少将が、ともに自決いたしました。これをもって我が軍の組織的な抵抗は終わりました。沖縄県では、以来、その日を平和祈念の日として毎年慰霊祭が行われていることは御承知のとおりであります。
この昭和二十年六月二十三日に、沖縄の防衛に当たっておりました第三十二軍の牛島満軍司令官と長勇参謀長が、島の最南端にあります摩文仁の岩頭で自決をいたしました。これによって沖縄戦は、事実上日本軍の組織的な抵抗が終わりました。 そこで、沖縄県では牛島軍司令官と長参謀総長が自決をしたこの六月二十三日を慰霊の日として定めました。復帰前から毎年、沖縄戦で亡くなられた方々の慰霊祭を行ってきたところであります。
旧日本軍、正確に言うと第三十二軍、この司令官は牛島満という中将、参謀長は長勇です。この関係で最初お伺いしたいのは、厚生省援護局長の名前で「宮古島飛行場用地買収事情についての認定書」、この中に「第二次大戦中日本軍が宮古島に飛行場を設定するため土地を買収するに際し、地主に対し、「戦争が終れば土地は旧地主に払い下げること」を口約したことは事実であると認定する。」とこれにありますね。
で、結局アマガランにおつたり待機しておつたりして、吉村隊に入りましたのは、先程申しましたような、昭和二十年の十二月十日頃でありましたが、やはり私が日本軍の憲兵であつたということをどなたかの誰かを通じて吉村隊長の耳に入つたものと見え、そして話して行きますと、私が上等兵のときに仕えた牛島満大佐、二、二六事件直後東辺道寛旬におられ、その後少將に進級の上、都城の師團長になつて、五島で上陸演習をされた。