2012-08-28 第180回国会 参議院 経済産業委員会 第11号
無神論者の方にとっては甚だ遺憾な表現であるということにはおわびを申し上げたいと思うんです。諸外国はそれぞれ議論を重ねてきた結果、また長い歴史の中で位置付けられた結果、今諸外国では原発がああいう扱いになっているわけなんですね。 枝野大臣は、原発の存在を必要とする日本にしたいのか、必要としない日本にしたいのか、大臣の今のお気持ちを率直にお伺いします。
無神論者の方にとっては甚だ遺憾な表現であるということにはおわびを申し上げたいと思うんです。諸外国はそれぞれ議論を重ねてきた結果、また長い歴史の中で位置付けられた結果、今諸外国では原発がああいう扱いになっているわけなんですね。 枝野大臣は、原発の存在を必要とする日本にしたいのか、必要としない日本にしたいのか、大臣の今のお気持ちを率直にお伺いします。
その結果、そういうことを一切しないようになって、学校における教育が結果的に無神論の教育になっている嫌いはないかということを私は憂慮いたします。 私の学校は私立学校ですけれども、いわゆる宗教、宗派的教育は一切やっていないんですね。黙想して、親や大自然や先祖や、そういうものに感謝する心というのを非常に大事にすると。それも宗教かという人もいるわけですね。
(保坂(展)委員「九月二十日です」と呼ぶ) それから、今の御質問についていえば、家庭の教育というものは、やはりこれは社会主義者の家庭で教育をする場合もあるし、無神論者の家庭で教育をする場合もありますから、心の問題に踏み込んだ法改正というのは当然私はやっちゃいけないし、あり得ないことだと。
日本の地域社会には、仏教を信じる者、キリスト教を信じる者、無神論の者、もちろん神道を信じる者を含め、あらゆる人が地域を構成し、生活を営んでいます。それを総理は、国家権力で神社を中心にしたものに戻そうというのでしょうか。まさにこの発言は憲法二十条に抵触するものと断ぜざるを得ません。神社の方々こそ迷惑な話です。総理の見解を求めます。 私は、戦後世代で戦後教育を受けてきた人間です。
いいですか、地域社会という中には、もちろん神社の氏子さんもおるでしょう、仏教徒もおるでしょう、キリスト教徒の中にはカトリックもプロテスタントもおるでしょう、創価学会の会員の方もおられるんですよ、また無神論の人もおられるんですよ。それで地域社会というのは成り立っておって、その地域社会をどうしようかというのはみんなで議論をして治めていこう、発展をさせていこうというのが民主主義原理じゃないですか。
このときに、多分無神論者の家庭をどうするかということをおっしゃらなかったのが問題になったのかと思いますが、大新聞がこれを取り上げました。教育委員会、それから教員組合もこれを取り上げました。ということで、校長はこの課題を撤回せざるを得なくなりました。特定の宗派に偏った宿題ではありません。
つまり、仏教徒もいれば無神論の人もいればカトリックの人もいればイスラムの人もいれば、いろんな方たちが来るわけですから、そこで折伏をしようというのであれば、それは宗教法人法の範囲内で宗教法人という形でやらない限りむしろおかしくなるというふうに考えます。 ですから、その場合は、宗教という形でやるのであれば、宗教法人法の中で税制の特典などもありますから、そちらで十分やる。
それはまるで、私は無神論ですけれども、キリスト教で言う原罪を死ぬまで引きずれという話でありまして、私はちょっとそれはついていけない議論ですね。そのかわり、逆に日本のまさに国内国外、国際的な人権外交あるいは民主化外交における一貫性ということが問われてくる。
そういう意味で消極的な無神論者と言えると思います。しかし、いろいろな相談を受けているうちに、改めて宗教の重要性というものを認識するようになってきたというふうに思います。 人間の精神の形成の上ではいかに重要であるか、あるいは中には宗教がなくては生きていけないという人もいる、こういう実態を私自身実感しております。
無神論的な現代から言えば、ああいう人気のある芸能人というのは神様みたいな大きな影響力を持っていると思うのです。
そして彼個人はどうであるかといえば、おおむね無神論者である。この点まことに不可解である。多くの貧しい大衆は荘厳な宗教から疎外されてしまっておるので、その道を新興宗教に求めておるようだ。
しかし、祖先崇拝のアミニズムがありますから敬虔な気持ちでお葬式に参加しておるけれども、腹の底ではおおむね無神論者である。そのくせに神さまも同じく尊敬し、八幡さまも尊敬し、ついでにお稲荷さまにも敬意を表することを絶対に忘れない。今日、人生に対して敬度な気持ちで日曜ごとに礼拝に通っておるのは、もうクリスチャンぐらいのものであろうか。
無神論者というのがおるのです。あるいはキリスト教の信者もおりましょう、あるいは創価学会の信者もおりましょう。そういうような者が自衛隊の幹部の中にいないということを、あなた方は保障できないわけです。これは信仰の自由というものが保障されているのですから、そういうような形をとるということは、明らかに憲法二十条の宗教上の儀式というものを国の機関が強制をするということですよ。
臨時応急ということを、ともすれば政府側から申されるのでございますが、御存じのように、われわれは、無神論者に神の教えを説くということがいかにむだであるかということは、すでに思い知らされたわけでございます。
これはほんとうに共産党的な考え方に徹しておる人、私が申し上げるまでもなく、無神論の立場をとり、唯物主義の立場をとつておる、それが黙祷するというのは、それ自体を見ましてもごく子供らしい、少し英雄主義的な行動だとしか見られないのであります。さようなものに一々こだわつてすぐ取締り規則を強化するとか、いうようなことをやれば、逆効果になると私はかたく信じております。
そのときに宮城裁判長から、被告たちは無神論である、かつ唯物的な世界観の上に立つておるのだが、そういう人たちが黙祷をするのかねと軽く言われて、被告たちが非常にマイナスをとつておる、そういう事例もありまするが、今の録音をお聞きになつて、五鬼上氏もそれから検事総長も、法廷の秩序が非常に混乱されたというお感じを持ちましたかどうか、その点を一応承つておきたいと思います。
現に第一次大戦後のドイツへ入りますと、もう学校教育はめちやくちやで、旧教は旧教の教育をやる、新教は新教の教育をやる、社会党の強いところは唯物論的、無神論的教育をやる。ことにプロシヤの文部大臣ホフマンは、社会党の左派に属していた人であるが、牢の中に入つてバイブルの欠点ばかり研究して、牢から出て文部大臣になると、バイブルを一節ずつ引用して皮肉つて、えらい問題を起した。
それで密告のおそれがあるというので、公園にひつぱり出して、ほかの四人が謀殺したという事件が事実あつたのでありまして、それをテーマにしまして悪霊という名作を生んだのでありますけれども、もともとドストイエフスキーは究極において神を信じた人でありますから、唯物論的立場を基底に持つておる無神論に対しては非常に反対の立場であります。
(拍手)そういう教祖釈迦に返つたときに、私の説は無神論の上に人間の生活に即し、自覚を説き、そして住みよい社会を建設するのが釈迦の仏教であります。かるがゆえに、私はそこには信仰や礼拜ということにそうこだわらず、仏教には礼拜の対象があつてもよし、なくてもよい、こういうふうにひとつお考え願います。
無我ということを平たく申しますと、無靈魂あるいは無神論というのと同様になるのであります。
又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチス、ドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者の指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります。元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。