1991-09-25 第121回国会 衆議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第3号
私は数年前に、あの瀋陽の郊外の柳条溝に行って満州事変勃発のところに立ちましたよ。満州事変を起こしたときに、ばかな軍人どもが満州建国した記念碑ですよ。その三つに炸裂した石柱を建てた。戦後そいつを倒したんですね。当然です。そしてそれには何と書かれているか。「九・一八を忘れず 血涙をもって恨みを刻す」と書き込んであるのです、そこには。二千万の人々が犠牲を受けているわけですから。
私は数年前に、あの瀋陽の郊外の柳条溝に行って満州事変勃発のところに立ちましたよ。満州事変を起こしたときに、ばかな軍人どもが満州建国した記念碑ですよ。その三つに炸裂した石柱を建てた。戦後そいつを倒したんですね。当然です。そしてそれには何と書かれているか。「九・一八を忘れず 血涙をもって恨みを刻す」と書き込んであるのです、そこには。二千万の人々が犠牲を受けているわけですから。
満州事変勃発から六十年ですよ。これが十五年戦争の始まりなんですからね。そういたしましたなら、私は、あなたのそれだけ演説をしてきた責任において、歴史の教科書を見直す、具体的に入る、関係国と入るということを言えないんですか。
それは、私は洛陽、奉天の郊外でございますが、その柳条湖に立ちましたときに、あそこで満州事変を起こした、その満州事変を起こした愚かな陸軍が満州事変勃発の記念碑を建てたわけですね。しかし、戦後、それを中国人は倒しました。そして、それに刻み込んであるわけです。「九・一八を忘れず、血涙の恨みを心に刻みつける」というのが、この石柱には刻み込まれておるわけです。
満州事変勃発当時の軍事費の予算に占める割合は約三〇%、二・二六事件当時で四五%あったことなどを引用しながら、いまの防衛費は五十五年度でも一般会計予算の五・二%にすぎない、少なくともいまのままではよくないことは確かだというふうな御発言らしいのですがね。 こういうことからいたしまして、外務大臣の、防衛費の増強ということについていろいろ最近御見解が出ているようであります。
昭和六年、八・一%、同年九月、満州事変勃発へ、翌七年が三三・八%になりましたが、今日、この平和のときに、そして大企業、大資本が莫大な留保資産を抱え込んでいるとき、かくのごとき収入見積もりの誤り、膨大な公債発行を行う政府は、責めを国民に負い、総辞職すべきであります。
すなわち満州事変勃発前年の昭和五年度におきまして、国民所得に対する軍事費は三・八%、国家財政に対する軍事費は二八・五%でありましたのに対し、昭和三十一年度の見込みは、国民所得に対して二%、国家財政支出に対して一三・七%となっております。そういたしますと、満州事変前に比べても、今日の防衛費は、約半分程度の割合にしかなっていない。こういうことが一応言えるわけであります。
最近のわが国の世相を見ておりますと、かつての満州事変勃発当時の状態に酷似しておるようであります。この傾向はさらに大きくなつて行くように私は見受けるのであります。
満州事変勃発の前年である昭和五年八月の米の二等米を考えてみたのですが、横浜では一升が三十銭九厘に相なつております。ところが昭和二十六年八月の配給米の価格は、九十円八十銭と相なつております。まさに二百九十四倍の違いであります。そういたしますと、一時金の五万円を全部金にいたしましても、これを逆算すると百七十円になつてしまう。
日本の機械工業は、昭和四、五年ごろの国産品奨励時代と申しますか、いわゆる国産品を奨励するような時代と、その後に満州事変勃発によりまして、工作機械製造事業法による助成、それから引続いて戦時態勢に入りまして、国家総動員法に基く各種の産業の助成時代、いわゆる国家が国の産業を助成するというような、一貫した大きな国家的な政策による助成時代という一つの時代があつたのであります。
たまたま満州事変勃発後において国内政策に変革を来たされまして、北海道では極端なるものは北海道のごとき大事な土地はいつでも開拓せんとするならばできるから、これは満洲に力を注ぎ、大事な宝庫としてとつて置けという議論さえありまして、私どもはそれに反対ではありましたが、ともあれ戰争以来というものは北海道の開拓というものは閑却されておりまして、北海道の拓殖計画は半端なものになり終つたのであります。
ことに満州事変勃発以来、国内の政策が転換しまして、北海道の開拓というものは一時足踏み状況で、われわれは非常に遺憾禁ずるあたわざるところのものがあつたのであります。 しかしながら、終戰後、地方自治体確立までは、北海道の長官は政府の任命する長官であります。従つて、政府の意見というものは、内閣総理大臣の意見というものは、明確に一本縦に一貫して通つておる。