1958-06-10 第29回国会 参議院 本会議 第1号
外交官として長く海外各地に御勤務になり、その間、ロンドン海軍軍縮会議、日印通商交渉、日独経済交渉、日本・スターリング地域通商交渉、日韓交渉等の国際重要会議に出席せられ、海外の事情に精通されるとともに、外交問題あるいは経済問題についての、広い、そしてまた深い御経験を積まれたのであります。
外交官として長く海外各地に御勤務になり、その間、ロンドン海軍軍縮会議、日印通商交渉、日独経済交渉、日本・スターリング地域通商交渉、日韓交渉等の国際重要会議に出席せられ、海外の事情に精通されるとともに、外交問題あるいは経済問題についての、広い、そしてまた深い御経験を積まれたのであります。
また体験のおもなるものは、明治四十年から昭和二十年に至るまでの軍人生活、ことに大正の末期には参謀本部部員兼海軍軍令部参謀といたしまして、直接国防用兵、作戦計画立案の任務を担当したこと、昭和二年ジュネーヴの海軍軍縮会議に列席し、次いで国際連盟の全般軍縮会議の準備委員といたしまして、軍縮問題に直接ぶつかったこと、また実戦の体験といたしましては、満州事変及び上海事変には参謀本部からの派遣参謀として、もしくは
○遠藤公述人 私はこの問題は今急に考えたのじやございませんので、昭和二年ジユネーヴで行われた海軍軍縮会議に出席したときから頭におぼろげながら浮びつつあつて研究を続けて来ておつたのであります。その後フランスに留学中、オーストリアのクーデンホーフェ氏が欧州連邦ということを唱え出しました。
それから当時昭和五年四月のロンドン海軍軍縮会議に対する軍人の不満が高まつて、これがいろいろな要因から軍人の政治介入を生み出したのでありますが、そのような様相は今日見られない。それから当時おそらく右翼に対していろいろな面から政府の金が流れたのではないかという疑いがあるのでありますけれども、今日はそういうことは絶対に行われていない。
従来の慣例に徴しましても、例えば一例を申上げますと、昭和五年の海軍の軍縮会議には若槻禮次郎さんが海軍軍縮会議に全権委員として参列を仰せ付けられているわけであります。この場合におきましても、全権委員というものが一つのやはり官職というのが正しかろうと、考えられるわけであります。