1999-03-24 第145回国会 参議院 総務委員会 第6号
めぐった戦跡の中でも、那覇南方の小禄に立てこもった海軍部隊の地下五十メートルにも及ぶ海軍壕は、いまだに五千人の犠牲者の霊気を感じさせるものでした。大田少将の遺言となる電報はそこで打たれたものでした。 その後、一九六五年八月の沖縄訪問の際、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、戦後は終わっていないとおっしゃったのは当時の佐藤内閣総理大臣ではなかったでしょうか。
めぐった戦跡の中でも、那覇南方の小禄に立てこもった海軍部隊の地下五十メートルにも及ぶ海軍壕は、いまだに五千人の犠牲者の霊気を感じさせるものでした。大田少将の遺言となる電報はそこで打たれたものでした。 その後、一九六五年八月の沖縄訪問の際、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、戦後は終わっていないとおっしゃったのは当時の佐藤内閣総理大臣ではなかったでしょうか。
○田村秀昭君 御承知のように、昭和二十年六月に海軍壕で大田少将が自決する前に最後の電文を大本営に打っております。沖縄県民よく戦えり、後世において特段の御高配あらんことをという電文を最後に組織的抵抗ができなくなったわけでありますが、その後特段の配慮を我々はしなきゃいけないというふうに思っているわけです。
御承知のように、昭和二十年六月に海軍壕で大田少将は、沖縄県民よく戦えり、後世沖縄県民に特段の御高配あらんことをという電報を大本営に打って自決されて、それ以来五十四年、沖縄県民は苦渋の連続であったと思います。私は、歴代の内閣が沖縄県に対して配慮はしてきたけれども、特段の配慮がなされてないんではないかというふうに思っております。
沖縄の問題については、海軍壕で大田少将が、沖縄県民よく戦えり、後世特段の御高配のあらんことをと言っているんですね。特段ということを言っているんですよ。今までは配慮だけしているんです。だけれども、特段じゃないんですよ。 なぜかというと、これは沖縄開発庁長官には申し上げましたけれども、所掌官庁が責任を持ってやるところがないんですよ、沖縄について。
私は、沖縄に行きますと、必ずあの海軍壕に行きます。あの海軍壕には、大田中将閣下の最後の電文が記されております。「沖縄県民かく戦えり、後世の皆さん、沖縄県民に対し特別の御配慮賜らんことを……」で終わっているのでありますが、あの心を私は忘れてはいけない、そのためには、沖縄に私は誠心誠意尽くしていくべきだ、こう思っております。
○鈴木(宗)委員 大臣もごらんになったかと思いますけれども、沖縄に行きますと、海軍壕に大田中将閣下の「沖縄県民かく戦えり、後世の皆さん、沖縄県民に対し特別の御配慮賜らんことを……」ということが記されております。私は非常に感銘を受けているのでありますけれども、大臣、沖縄県民に対する思いやり、また施策面でのいろいろな配慮は今後ともぜひともお願いをしたい、こう思っております。
われわれは、初日に沖繩総合事務局から業務報告を受けるとともに、沖繩県当局とも懇談し、小祿の不発弾爆発事故現場、豊見城海軍壕を視察し、第二日には海洋博覧会会場並びに海洋博関値事業等を視察し、第三日には伝統工芸、急病センター、琉大付属病院、危険校舎及び那覇新港を視察しました。以下、所見の概要を申し上げます。第一は、不発弾事故対策でありますが、小緑の事故は、まことに不幸なできごとでありました。
特に海軍壕の周辺、首里城の周辺、あとは南部戦跡でありますが、こういうような、現在、激戦地として明らかに認められている地域については、国として、組織的に安全確保のための調査をやっていただけないかというのが第二点であります。
土地区画画整理については本土三分の二に対して沖繩十分の九、市街地再開発については本土三分の二を沖繩十分の八、都市公園については本土が三分の一を沖繩二分の一、なお、沖繩においては摩文仁あるいは小禄の旧海軍壕等について全額、十分の十の国庫による戦跡公園の建設をいたしております。
○国務大臣(山中貞則君) 昨年から継続いたしております復帰記念事業は、主要五島の循環道路の第二年分並びに摩文仁丘の戦跡記念公園の第二年度分、さらにことしから遺骨の収集その他、さらに推定されるもう一段下の壕をきれいにトンネルを掘って整備する作業を含む、私有地を含めたりして記念公園にしようと考えておりまする旧海軍壕、こういうものが新しいものとして頭を出しておるわけでございます。
○山野政府委員 いま御指摘の点は豊見城にある海軍壕の話だと思います。私も、御指摘のような点を聞いておりますが、事は非常に英霊に関係する重大な問題でありますので、この問題につきまして琉球政府がどう考えておられるか、そういう点も、今度沖繩へ大臣と一緒に参りますから、よくその事情も聞きまして、政府としても十分検討してみたいと考えております。