2021-04-06 第204回国会 衆議院 安全保障委員会 第2号
大規模な海戦でそれを別に達成しようとしているわけではないということを理解することも大切だと思います。 つまり、近海地域では、米軍が軍事攻撃に踏み切ることがないように、海上民兵や沿岸警備隊を使って海上権益を主張する。米海軍と中国海軍が直接対する機会を与えないようにしているんじゃないかというふうに思っています。
大規模な海戦でそれを別に達成しようとしているわけではないということを理解することも大切だと思います。 つまり、近海地域では、米軍が軍事攻撃に踏み切ることがないように、海上民兵や沿岸警備隊を使って海上権益を主張する。米海軍と中国海軍が直接対する機会を与えないようにしているんじゃないかというふうに思っています。
その最初の失敗が実はミッドウェーの海戦であったのではないだろうか。その前の年の十二月に真珠湾、パールハーバーへ行って、それから翌年の六月ですから、まさにここが一つの分かれ目になって、そして、日本はそこからだんだんだんだん敗戦に、道をひた走っていったのではないだろうかと思っているわけであります。
海軍記念館に、アメリカの海軍記念館というのがアナポリスというところにあるんですけれども、あそこへ行くと、ミッドウェーの海戦はアメリカの敗戦ということになっているというのは御存じですか。あれは日本が勝ったんだよと、アメリカは負けたことになっております、アメリカではね。という歴史があるんですけれども、その話をここでするつもりは全くないので。
この乗艦した「かが」は、ミッドウェー海戦において沈没した当時の日本海軍の最高レベルの正規空母「加賀」と同じ名前ですが、何と両艦の長さが二百四十八メートル、ぴったり、全く一緒なんですよ。調べていてびっくりしました。防衛大臣、まさかわざと同じ寸法にしたんじゃないでしょうね、お答えください。
一九七四年一月に西沙諸島の戦い、そして一九八八年三月には南沙諸島、スプラトリー諸島海戦と二つの海戦がありまして、西沙諸島の戦いでは、南ベトナム海軍の哨戒艦一隻を撃沈して、島に上陸して実効支配をしております。また、スプラトリー諸島海戦では、ジョンソン南礁、ファイアリークロス礁などを手に入れたということでございます。
この開催地長門市には、日露戦争の日本海海戦で戦死したロシア兵の墓があります。それは、浜に漂着したロシア兵士の御遺体を地元の漁師が日本兵の御遺体とともに手厚く埋葬し、今日まで供養を続けてきたものであります。 一時的な対立や争いがあっても、相手への敬意を失わず、恨みを残さない。これは今年のオバマ大統領の広島訪問でも証明された日本人の世界に誇る美徳であります。
あらゆる事態を想定すると、ホルムズ海峡が機雷をまかれて封鎖をされている、なおかつホルムズ海峡が戦場になって海戦が行われている。あるいは、我が国に敵対する軍隊が、海軍がそこを、機雷だけではなくて、海軍がその地域で活動することによって、そこの航海の自由を封鎖している、こういう事態も想定しなきゃいけないですよね。岸田さん、どうです。
そして、第二次世界大戦を見れば、あらゆる、インパール作戦、レイテ沖海戦、マリアナ沖海戦、マレー沖海戦等々の主要な戦いは全て、補給路または航空中継基地をめぐる戦いであったということであります。
この十一月十七日、四四年ですから戦争が終わる前の年ですが、その一カ月前にはフィリピン沖海戦というのが行われていまして、もう完全にその地域の制海権は日本は失っていた。その一月ほど後に、細野光男というのはそこに、船に乗って、水雷艇に乗って戦争に行っているわけですね。 横須賀から行ったそうです。
それから、先生御指摘の国防省の北極海戦略でございますけれども、いろいろなリスク要因というところは考えておりますけれども、米国の国益あるいは国土を守るという観点から、同盟国などとの防衛協力の促進あるいは危機への備えを行っていくということにしていると承知をしております。
御存じのとおり、レイテ島はさきの大戦でレイテ沖海戦など大規模な戦闘が行われた地域であり、私たちが宿泊したホテルには日本の兵隊の方々の写真も数多く展示をされており、忘れない努力と、逆にフィリピンの皆様方の真心というものも感じました。
先生の母方のおじい様は、日本海海戦時に連合艦隊作戦参謀を務めたあの秋山真之海軍中将であります。その後、先生は鎌倉において御成長されました。幼少のころから曲がったことが大嫌いで、相手が学校の先生でも、友達でも、思ったことははっきり言い、みんなをまとめていく少女だったと伺っております。そんな先生に付けられたあだ名は、尚子ならぬ卑弥呼だそうです。
そして、そのうちミッドウェーの海戦があって、そしてサイパンもテニアンも落ちた。サイパンは、そこに行っていた日本人は、みんな崖から飛び込んで海に死んでいったんです。硫黄島のあの司令官はどういう思いで死んだか。硫黄島で死んだのに、その遺骨さえ、まだ日本軍のあの兵士たちの遺骨がなぜ完全に収容されぬのか。政府はそういうものなのかと。 そして、硫黄島が落ちて、沖縄に来ました。
要するに、珊瑚海海戦とミッドウェー海戦との間にやったのが、被害があるということを前提にしたのがアメリカ軍、被害は絶対にないと思ったのが日本軍。珊瑚海海戦では空母が同じように被害を受けたけれども、直してミッドウェーに持ってきたのがアメリカ軍、日本は全く空母がなかった。だから負けたというので、要するに、ダメージコントロール、被害がある、ダメージがあるということを前提に物事を考えていく。
要するに、ダメージコントロールという、ちょっと話が、これは資料にないですけれども、珊瑚海海戦とミッドウェー海戦の間にアメリカ軍がしたことと日本軍がしたことの違いというのはダメージコントロールということで、アメリカ軍の空母は、飛行機が飛ぶ甲板と船員が暮らす居住室との間に空間があって、その横っちょに、燃えたら、その燃えたものをブルで海に押し出す、そういう設計をしていたんです。
これはもう大臣が一番得意なところなんですけれども、ちょっと迂遠しますが、珊瑚海海戦からミッドウェー海戦という二つの海戦の間に、日本軍とアメリカ軍と何が違ったかというと、ダメージコントロールなんですね。ダメージを前提として、ダメージというのはあるんだと。ですから、空母がやられた度合いは、珊瑚海海戦では引き分けだったんですね。両方とも同じように空母がやられた。
戦史を勉強されておる先生方ですからよく御存じのとおり、あの珊瑚海海戦では日米のダメージは引き分けだったんですね、空母も戦艦も同じようにダメージを受けた。だけれども、アメリカ軍にはダメージコントロールの考え方があったので、ダメージはあり得べしと。だから、空母のダメージを最小にするための設計思想がもともとあり、そして、実際に修理をしてミッドウェー海戦に臨んだんですね。
ところが、ずっと時代が変わるに従って、空母機動部隊、空母に飛行機を載っけて制空権をとって攻める、これはもともとは日本が開発して、真珠湾とかマレー沖海戦はそうだったのでありますが、日本では結局これが主流にならずに、最後まで大艦巨砲主義で来てしまった。
総理も官房長官もよく御存じだと思いますが、この日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊に勝利したと。しかし、当時日本には継戦能力、戦いを続けていく能力、もう余力がなかったと。そこにアメリカがタオルを投げたと。で、ようやくポーツマス条約というのが締結されたと。しかし、国内においては情報統制がされていましたから、勝った勝ったの連戦連勝の報道だけと。
私個人としては、当時の軍部による中国大陸への進出は侵略的要素があったというふうに考えますが、対米英への宣戦布告、つまり真珠湾攻撃やマレー沖海戦などは侵略とは言いがたく、通常の交戦であったと考えております。 そこで、政府が考える国際法上の侵略の定義についてお答えください。
今から六十八年前、日本が航空機によって米戦艦を沈めた真珠湾攻撃は、実は、それまで世界の海戦思想を三百五十年にわたって支配した、大艦巨砲主義というそれまでの常識を転換させた画期的な出来事でありました。 しかしながら、その後の大きな疑問は、おくれをとった米国の方が思想を転換し海戦の構造改革を遂げたのに対して、なぜ日本はいつまでも戦艦大和に寄りかかる戦略を転換できなかったのかということです。