1956-11-20 第25回国会 参議院 議院運営委員会 第7号
お手元の履歴書で御承知のように、武田君は、昭和八年大学を卒業後逓信省に入り、自来、札幌逓信局海事部長、函館地方海員審判所長、神戸海務局監理部長等を経まして、十七年九月、陸軍司政官に任命され、終戦後には四国海運局次長、同運航部長、商船大学事務局長、神戸及び関東の各海運局長を歴任いたしまして、昭和二十七年八月、船員局長となりましたが、昨年六月退官いたしまして、協立汽船株式会社嘱託、日興海事株式会社監査役
お手元の履歴書で御承知のように、武田君は、昭和八年大学を卒業後逓信省に入り、自来、札幌逓信局海事部長、函館地方海員審判所長、神戸海務局監理部長等を経まして、十七年九月、陸軍司政官に任命され、終戦後には四国海運局次長、同運航部長、商船大学事務局長、神戸及び関東の各海運局長を歴任いたしまして、昭和二十七年八月、船員局長となりましたが、昨年六月退官いたしまして、協立汽船株式会社嘱託、日興海事株式会社監査役
それはもうわかつておることなんでありますが、ただここに私の申上げた趣旨は、過去の港湾行政に関する沿革を見ますといろいろありますが、戦争が始まるまでは、税関と海務局というものが窓口の仕事を二つに分けてやつておつたわけです。特別の港湾に関しては、土木出張所が建設等に関係しましたが、直接の港湾の行政は税関と海務局でやつておつた。
こういう状態が昭和十六年まで続いたのでありますが、昭和十六年の例の臨戦体制の整備という当時の要請によりまして、逓信省に海務局ができまして、それが更に海運局となり昭和十八年におきましては税関をすべて吸収して、税関というものは一応姿を消した恰好になつております。
海務局の職員、これは当時逓信省関係でシンガポールに出ております。気象台の職員、文部省の関係で中国に出ております。拓務省の技師、拓務省関係で南米或いは南方に出ておつたようであります。
○船山証人 搭載物資につきましては解撤の対象になりませず、これは海務局の指示を受けて処分することに相なつておるのであります。
尚右施設を利用して実施して参りました艦艇解撤の作業は、一切の収支を正確に明瞭にいたしまして、随時所在地方財務局及び海務局をしてこれを点檢、監督する必要を認め、その方向において今後は別途予算的措置を講じて右の趣旨に進みたいと、こう考えておる次第でございます。
なお地方の保安本部長並びに保安本部次長は、地方の海務局に從來海務部長というのがございましたがこれを充てております。これは從來航海の安全に関する諸業務をやつておりまして、実際自分も航海をした経験のあるエキスパートであります。そこでこれらの職員に対しましては、それぞれ各般の警察権を執行するエキスパートを今後取入れまして、一も早く皆さんの御期待に副うような活動をいたしたい、かように存じておりま。