2010-04-21 第174回国会 衆議院 内閣委員会 第8号
その後、昭和四年、田中内閣が倒壊した後、浜口内閣が誕生いたしました。浜口内閣は、田中内閣の党略人事を是正するという名目で内務省の人事を動かしました。このときは、四十七道府県のうち、知事二十七人を免官、休職、また、この二十七のうち十三名はもとの知事をひっくり返して戻しています。この結果がどうかは別として、昭和五年の総選挙では、民政党は得票率五四%、政友会は三八%で、今回は圧勝しております。
その後、昭和四年、田中内閣が倒壊した後、浜口内閣が誕生いたしました。浜口内閣は、田中内閣の党略人事を是正するという名目で内務省の人事を動かしました。このときは、四十七道府県のうち、知事二十七人を免官、休職、また、この二十七のうち十三名はもとの知事をひっくり返して戻しています。この結果がどうかは別として、昭和五年の総選挙では、民政党は得票率五四%、政友会は三八%で、今回は圧勝しております。
それから、その次に田中義一内閣が浜口内閣にバトンタッチをした。その次に第二次若槻内閣が犬養内閣にバトンタッチした。その次に犬養内閣が斎藤内閣にバトンタッチした。斎藤内閣は岡田内閣にバトンタッチした。 それから戦後ですが、戦後、第一次吉田内閣が片山内閣にかわったのは総選挙に敗北したことが原因ですが、しかし、吉田さんの自由党は第一党だったんです。
幣原さんは、昭和の初め、若槻内閣とか浜口内閣で外務大臣をやられ、軍縮交渉の全権となって活動され、軍縮条約をのんだために軍部や右翼から罷免をされたという平和主義者だと思いますが、一九四五年、つまり昭和二十年の戦争が終わった直後、その十月から昭和二十一年の五月まで総理大臣をやられ、憲法をつくることに加わっておられます。
よく、私の改革をとらえまして戦前の大恐慌の事例の例を当てはめる方がおられましたけれども、戦前のあの浜口内閣当時の大恐慌のときには、アメリカも悪かった、ヨーロッパも悪かった、日本も悪かった、世界恐慌と言われるぐらい。
フーバー大統領のときも二年後にはルーズベルト大統領に替わりましたし、浜口内閣のときも三年度目では積極財政に転換しております。四年、五年とこれが続くならば私は非常に恐るべき事態を招くのではないかと。そういう意味で、そろそろ財政出動をすべきではないか。去年も今ごろから補正予算の議論が始まりまして、そして今年の一月に三兆円に及ぶ補正予算をしていただきました。
○内閣総理大臣(小泉純一郎君) よく昭和恐慌の時代と似ていると言う方がいますが、私の祖父の小泉又次郎が浜口内閣に入閣したのが昭和四年、金解禁をめぐっていわゆる世界恐慌に至った当時の逓信大臣をしていました。
これが昭和五年、浜口内閣のときの憲法十一条の統帥権問題が引き起こった、後に日本がずうっと軍国主義へ進んでいってしまったということだったと思うんです。
そうなりますと、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約に調印したことは、これは美濃部解釈によれば合憲になります。そして、伊藤博文の解釈もそれを支持しているように見える。
最後は浜口内閣の昭和五年で、軍縮をやろうと思ったら枢密院に……。 だから、みんな明治維新をつくった元老、当時の元勲たちがコントロールしてつくった体制にニューカマーが来るたびに、何でもなかった機構というのが全部意味を持ってくるというような感じがあるんじゃないでしょうか。
この第二次若槻内閣の時代と申しますのは、今昭和六年という話がございましたけれども、浜口内閣の後に第二次若槻内閣となりました。そのころの時代背景を見てみますと、浜口雄幸内閣から若槻内閣にかけて、井上準之助という人が大蔵大臣を務めておりましたね。
古くは昭和初期、世界大不況のさなかに推進した浜口内閣の経済政策であります。私は、剛直な気質の浜口雄幸総理、また、明敏にして理詰めの政策展開を図られた井上準之助蔵相という大先輩を、人間として心から尊敬しています。しかし、その政策が結果として深刻な社会不安を引き起こし、お二人は非業の最期を遂げるに至りました。
世界大恐慌の真っただ中にあった昭和六年の第五十九回通常議会において、浜口内閣の井上蔵相と政友会の三土忠造議員による論争が繰り広げられました。
そしてまた、もう一つ類似点をここで挙げるならば、浜口雄幸内閣、浜口ライオン宰相と言われていて、小泉さんがライオンハートと言われていること、そんな言葉を使われたりとか、もう一つ言うならば、浜口内閣のときの逓信相、かつての、この総務、郵政委員会の、そこのベースを持っていた逓信省の大臣であったとか、そういう点、似ているところを探せば、無理してひっつければ幾らでもあるんですけれども。
しかし、この年の四月、浜口内閣が総辞職し、九月には満州事変が勃発するなど、激動の内外情勢の中でこの国旗法案は審議未了、廃案となりました。そして、やがて衆議院は解散、この議員は大阪の選挙区で落選してしまいまして、この国旗法はとんざしたわけでございます。 戦後、最初に国旗の法制化が検討されましたのは、一九六二年、東京オリンピックを前にした昭和三十七年のことでございます。
何しろ、おっしゃるようにこの仕事は大変難しくて、明治三十一年の大隈内閣、三十六年の桂内閣、大正二年の山本権兵衛内閣、昭和四年から六年までの浜口内閣、若槻内閣いずれも、その当時の社会、経済、財政状況を受けて、昔は行政整理あるいは財政整理という名のもとに今日言われる行財政改革に取り組んで、それなりの成果をおさめておる面もあるのですが、大体途中で挫折をしておるわけでございます。
浜口内閣の行政改革は、深刻な、ついに総理やあるいは蔵相の肉体的生命を奪ったことは御承知のとおりであります。したがいまして、これから、いま政府がやっておられるような看板のかけかえ程度の行革ではなくして本格的な行革をやろうと思えば、いま申しましたような多くの犠牲と覚悟が必要であると思いますが、総理のお考え、御決意はいかがであるか、伺いたいのであります。
いま、私は、一九二九年七月、浜口内閣が本院において、財政整理、金解禁、行政改革を訴えた歴史を思い起こすのであります。張作霖爆殺事件の責任をとった田中義一内閣の後の浜口内閣が命を賭して追求したものは、最も反動的な枢密院、軍部の圧力をはねつけたロンドン軍縮条約と国際協調であり、国内にあっては労働組合法の成立でした。だからこそ、軍縮条約の批准直後、右翼の凶弾が浜口首相を襲ったのであります。
これは、実は浜口内閣の井上準之助大蔵大臣のお言葉でございます。文章そのとおりかどうかは別として、意は尽くされているように思います。 いま、この委員会で多くの委員が指摘をしてまいりましたように、今度の臨調というのは、福祉や医療や教育あるいは地方自治などに対するいわば切り下げの措置である、そのことが強調されてきたことは大蔵大臣も御存じのとおりであります。
一方浜口内閣は、あの時代で、公務員にだけ犠牲を強いるんではない、軍縮を政策の大きな柱にした。こういうことまでやって公務員にも犠牲を求めたのであります。そういう時代の歴史、状況についてあなたはどう考えておられますか。一方では軍拡だ、重税だ、大変な財政危機だという中でそれをやろうとしている。他方では、公務員に犠牲をいろんな意味で強いようとしている、その流れで行革も動きつつある。
かつて一九二九年恐慌の直後、時の浜口内閣は財政難を理由に官吏の一割減俸を断行しようとしました。ところが、裁判官、検察官を初め各省官吏の猛烈な反発を呼び、鉄道省職員の一斉辞表提出などの鋭い抗議を受けて、ついに撤回せざるを得ず、ようやく二年後に高級官僚と一般との間に減俸率に差をつけるなど大幅に原案を緩和して実施したのであります。
昭和五年、大蔵官僚出身の濱口首相がピストルで撃たれ死亡し、同七年、浜口内閣の大蔵大臣であった井上準之助が射殺されたいわゆる血盟団事件につき、総理は思いをはせていただきたいと思います。 この二人が射殺された主な理由は、金解禁、緊縮財政を強行し、物価を引き下げ、廃業の整理と合理化を行ったからであると言われております。
浜口内閣のときでありますけれども、そのときに浜口内閣は、統帥権は内閣総理大臣は介入はできないが、陸海軍の編制及び常備兵力を定めることについては内閣総理大臣が輔弼をする、こういうふうな形になっているのです。ところが、軍縮問題に端を発してとうとうたる世論のもとに、だんだんそれが変えられていった。いわゆる軍縮問題論争、統帥権論争であります。