2016-03-25 第190回国会 衆議院 内閣委員会 第9号
また、右翼によるテロ、ゲリラ事件としては、昭和三十五年、社会党浅沼委員長殺人事件など、凶悪な事件が多数発生しておりますが、こうした右翼によるテロ、ゲリラ事件としては、統計のある昭和六十年以降百九十九件発生し、負傷者数は、平成元年以降八人でございます。
また、右翼によるテロ、ゲリラ事件としては、昭和三十五年、社会党浅沼委員長殺人事件など、凶悪な事件が多数発生しておりますが、こうした右翼によるテロ、ゲリラ事件としては、統計のある昭和六十年以降百九十九件発生し、負傷者数は、平成元年以降八人でございます。
そこから、私どもといたしましては、右翼は、例えば古くは浅沼委員長刺殺事件などに見られるように、国会議員の方に対する事件を数多く敢行しているというようなこともございまして、右翼による犯行の可能性もあるのではないかということで、これは刑事警察のみならず警備警察も含めて総力を挙げてこの事件の解明をすべきである、こういう判断で捜査本部に公安三課の要員を加えたというものでございます。
池田首相はみずから浅沼委員長の追悼演説に立ち、浅沼さんは暴漢の凶刃に倒れた、浅沼さんのあいた席から、暴力は民主政治家にとって共通の敵という声が聞こえるようだと述べて、哀悼の言葉を贈られたことはきのうのことのようであります。 森さん、あなたは臨教審のコンビであった中曽根さんのこのような考えを支持されますか。憲法、教育基本法の根本に触れることでありますから、はっきりと答えてください。
そういう繰り返しをやっていった方が、今のナイフの不所持の問題だって、これは旧社会党の浅沼委員長が山口二矢に殺された段階からナイフの所持が禁止をされたと、何かお聞きをしたあれがあったんですけれども、やっぱりもうそういうのが忘れられてしまっておるわけでしょう。
(拍手) 私が本院に議席を得ましたのは、六〇年安保闘争を受けて池田内閣が成立し、我が党の浅沼委員長が右翼の凶刃に倒れるという中で行われた第二十九回総選挙であります。翌年には所得倍増計画がスタートし、農業基本法及び新産業都市建設促進法が制定され、我が国のエネルギー消費は石炭と石油がフィフティー・フィフティーとなり、国際収支の改善に向けて本格的な産業経済政策が展開されたのであります。
○北沢委員 次に、警衛に関する事務の移管に関連をしてですが、警衛に限らず要人の警護という面で、古くから私どもの党だけでも、浅沼委員長に対するテロ、さらには土井たか子前委員長、山口書記長に対するテロ等、また長崎市の本島市長、そしてっい先ごろにおきましては金丸自民党副総裁への発砲事件など、絶対にあってはならない、言論の自由を暴力で封じ込めようとする、震憾せしめる事件が起きております。
例えば私どもの党の浅沼委員長、そうでしょう。 つまり、ここの寸前まではどうも言論の自由で仕方がないんだというような態度をとることによって、そこで防備の完全を期すというのならよいですよ。しかし、防備の完全は期せられないでしょう。だからいろいろな事件が起きてくるわけでしょう。テロ事件が起きてくるわけでしょう。
そういう中で、かつての日中も、日米安保条約は日中共同の敵であるということを社会党の浅沼委員長は言われたことがあります。しかし、日中の平和条約はできた。また歴史は変わったわけであります。
○伊吹委員 この委員会の冒頭質問で、社会党の山口委員が、浅沼委員長や保利衆議院議長の言葉を引用されまして、政治家というのは選挙のときに口当たりのいいこと、あるいは有権者に受け入れられやすいことを言って票をとるがというお言葉がありました。
私は、その公約違反と、保利議長やあるいは浅沼委員長が言われたこととの関連を政治姿勢の問題として聞いているんですから。 一体どうなんですか、この議長あっせんということで公約違反の問題が解決したんですか。そう考えているのですか。だからこそ委員長席に座って強行採決をしたというんですか。その点をはっきり答えていただきたい。
昭和三十五年十月、日比谷公会堂で右翼の凶刃に倒れた社会党の浅沼委員長は、倒れる直前の演説で次のように我が国の議会政治を守る言葉を残されているのであります。
私が、初めて本院に議席を得させていただきましたのは、一九六〇年、あの歴史的な安保条約をめぐり厳しく対決した国会、浅沼委員長が凶刃に倒れた悲劇の直後に行なわれた第二十九回総選挙でありました。 議場の最前列、一番はしの議席についた時「この議場にかつて戦争を鼓吹し、賛美する声が響いた時代があった。再びその過ちを繰返えさせてはならない。
そのような情勢の中で、反安保闘争の先頭に立たれた社会党浅沼委員長が、池田総理の目の前で、右翼少年の凶刃によって刺殺されるという、天人ともに許さざる政治テロが行われたのであります。当時、私たちにとって、平和、民主主義、基本的人権尊重の理念を凝集した日本国憲法こそ最高の価値であり、政治の原点まさにここにありとの確信に燃えておりました。
かつて我が党の浅沼委員長もテロに倒れた、こういう事実を思い起こしながら、政治と言論の自由を最もとうとぶ報道に対するこの脅迫を許すわけにはいかない、こういう立場を私は議員の皆さんと同じように感じているわけでございます。 このような課題に対して、政府も一つの手段、非常に大事な方法、決意をお持ちだと思いますが、捜査経過を踏まえながらその決意をお聞かせ願いたいと思います。
新聞などもそうですけれども、浅沼委員長の刺殺事件、中央公論の「風流夢 」事件、私どもの赤旗編集局や発送部にも右翼が乱入したことがございますけれども、警察としてはどうですか、これは右翼とのかかわりはあると思っておられますか。
六〇年安全保障条約の安保闘争のときには、前の長官の加藤君はあのデモの中にいたというような話ですが、あのときに浅沼委員長が右翼の凶刃に倒れたということは、昭和三十三年に出たのですから、私の政治生活の第一歩として非常に大きなショックであった。しかし、その長い間を振り返ってみると、議会政治ではたくさんの大切な問題について実績を積み上げてきたと思う。その一つは、平和に関する諸原則である。
(拍手) 初当選直後の六〇年安保のとき、故浅沼委員長が右翼の凶刃に倒れたこともショックでありましたが、二十有余年の国会を通じまして、核時代における戦争と平和の問題が真剣に追求される中で、与野党を超える第三の共通項といたしまして、満場一致の国会決議など、唯一の被爆国日本の平和に関する四つの国是が導き出されたことを忘れてはならないのでございます。
○志苫裕君 それで、警察が善意でやっても云々ということを私申し上げましたが、例えば三十五年に我が党の浅沼委員長が少年に殺されまして、そのころまた少年非行がピークになりまして、皆さんの方では今度も総合少年対策要綱で国民運動ということが企画されていますが、あのときも国民運動の一種として刃物を持たない運動というものを展開されました。
君は、浅沼委員長刺殺の悲報を中国において聞かれたのでありますが、氏を悼んで次の一首を詠まれました。 「長江を真赤に染めて浅沼の死を悼みつつ陽は沈みたり」 君は、朝日新聞記者時代の昭和五年、当時国際連盟事務所に勤めておられた里子さんと出会われ、結婚生活に入られました。自来、苦楽をともにされ、戦後はお二人で衆参両院に分かれ、おしどり議員として国政に尽くされたのであります。
それを河上先生は感じて、浅沼よりもおれは年配だ、君は浅沼君と学生時分からの反軍国主義運動を起こした僚友であるから、浅沼を守ってくれ、おれは浅沼のかわりに死ぬ、浅沼を守ってくれと、浅沼委員長になり、河上先生が左右で対立して落ちたときに、あの九段会館の便所のところまで引っ張ってって、私に説いたのです。浅沼君は何にも言わずに、やっぱり日中の立場の犠牲者となろうとしたんです。
特にわが党は、戦後一貫して平和の確立、日中正常化、両国の友好発展を強く望み、その指導的役割りを果たしてまいりましたが、このため、浅沼委員長の生命をも失うという悲劇をも経験いたしたのであります。いま、この段階を迎えて、言い尽くせない感慨を覚えるものでございます。