1964-04-23 第46回国会 参議院 運輸委員会 第23号
○政府委員(若狭得治君) あの「洞南丸」は、ラワン材を積みまして航海中に転覆いたしたと推定されるわけでございますが、あれは戦標船でございまして、名古屋港に到着してから解撤するという計画になっておったわけです。ラワン材というのは、御承知のように、甲板に木材を積む量が非常に多うございまして、そういう原因ではないかというふうにわれわれには考えられるわけでございます。
○政府委員(若狭得治君) あの「洞南丸」は、ラワン材を積みまして航海中に転覆いたしたと推定されるわけでございますが、あれは戦標船でございまして、名古屋港に到着してから解撤するという計画になっておったわけです。ラワン材というのは、御承知のように、甲板に木材を積む量が非常に多うございまして、そういう原因ではないかというふうにわれわれには考えられるわけでございます。
ところがわが国では、先ほど申しましたように、従来の関係四団体の自主規制ではやはりこの海難がなかなか防げない、こういうことで、先ほど申しましたように、さきの四十三国会で船舶安全法の一部が改正されまして、この微粉精鉱と、いま一つ本年の六月ですか非常な問題になりました例の洞南丸のラワン甲板積みの問題、こういうふうなものが規制されるような根拠規定ができた、こういうことであると思うのであります。
思うけれども、それから二月たった六月十一日の当委員会で私が緊急質問をしたところの戦標船洞南丸のいわゆる事故というものはどうなった、こういうことを私は申し上げたい。わずか二月きりたっていない。その原因はどうなったんですか、結果は。この間横浜港を私どもが現地調査に行ったときに、あの洞南丸のボートと思われるものが拾われて、そうして横浜港に海上保安庁で持ってきてあった。
なお、洞南丸の事情につきましては、相沢委員も御承知のように、船も人間も全部が喪失したのでございまして、原因の究明はまだ明らかにならない。せっかく海上保安庁なり、種々の手を尽くして、今その真相の把握に努力をいたしておる最中でございます。
○辻政府委員 それでは私から洞南丸の消息不明事件につきまして、簡単に経過を申し上げます。 洞南丸と申しますのは、総トン数二千八百四十九トンの船でございまして、佐藤国汽船株式会社の所有でございますが、日正汽船株式会社に用船に出ておりまして、ラワン材を積みまして五月三十一日にフィリピンを出航、名古屋向け航行しておったものでございます。
○藤野政府委員 洞南丸につきましては、検査の執行に関して乗り組み員から、陳情なり意見が出たことは聞いておりません。
○相澤重明君 局長がそういうふうに、昨年の出した通達の内容についてもあとで説明があろうと思いますから、それはその時期に譲りますが、私は、少なくとも航海の安全ということは、われわれ運輸委員会で常に主張しておったことであるし、しかも、今回のこの洞南丸の遭難——遭難だろうと思うんですが、今捜索しているのだから。
○相澤重明君 この際、運輸大臣並びに海上保安庁長官、海運局長に、洞南丸の問題についてお尋ねをいたしたいと思うのでありますが、今海上保安庁から汽船洞南丸消息不明事件についての資料をちょうだいをしたわけでありますが、このことはすでに、フィリピンからラワン材を満載をして名古屋に向かう途中に、本月六日にそういう事故が起きておるというのでありますが、いまだに消息が不明である。
こういうような状態の中で先ほどおつしやられたような、どなたかおつしやられたような武装警官の派遣ということが起きて参つたのでございますが、九月二十二日埠頭に横付けになりました洞南丸に対する半製品の積出の際には武装警官約六百名が出動をいたしております。労働組合といたしましては、官憲との摩擦を避けるために、このときはそのまま拱手傍観というような形でおつたのでございます。
それから最後にこの密航の問題のときに、これは当委員会でも大いに力を入れて聞いていただきたいところだし、いただかなければならぬところだから聞くのですが、犯罪は朝鮮の港で発覚して、あなたの乗つておられた洞南丸か何かが若松に入港した、そこで下船をして、そうして神戸に来て、神戸の警察で調べられたというのですが、ああいう場合には、犯罪がすでに発覚しておる場合に、帰つて来た第一の寄航地で問題になるのが普通なのですか
そうして、昭和二十一年の十二月ごろ洞南丸乗組中、日本共産党に対する入党のただ口頭での承認をいたしました。その後昭和二十二年六月ごろだと思いますが、海員オルグとして若松に参りまして間もなく署名捺印いたしました。
これに対して刑事上の問題で取調べられたということは、この問題で私がはつきりつかまつたとか、また逮捕されたとか、発見されたということは、私自身の問題は、先ほどお話ししました洞南丸に乗つておりますときに、朝鮮で発見され、そうして神戸へ帰りまして、神戸の水上署に二時間くらい連行されまして取調べを受けた。それ以外にはありません。
その後私が洞南丸に乗り移り、洞南丸でずつと船内委員をしておりましたので、ずつと海員組合の方とは連絡がとれておつたのであります。そして海員組合に連絡に行くたびに永山正昭と会い、永山正昭のうちをたずねるというふうにして、彼とは非常に深いつながりができて来たのです。