1957-11-12 第27回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号
ソ連本土から帰国した者はわずか五名でありまして他は全部樺太在住者でありますが、依然として樺太西海岸が多く、名好、珍内、塔路、蘭泊、本斗、泊居等に残留していた者で、東海岸は知取だけしか帰国しておりません。
ソ連本土から帰国した者はわずか五名でありまして他は全部樺太在住者でありますが、依然として樺太西海岸が多く、名好、珍内、塔路、蘭泊、本斗、泊居等に残留していた者で、東海岸は知取だけしか帰国しておりません。
その後母の手で育つて、住所を泊居に移して小学校に入学、約一箇月にして塔路に移つて、小学校三年のときさらに北名好に移りましたが、ここで恵須取中学在学中に勤労動員で伊藤という軍需工場に徴用されて終戦まで働いておつた。終戦が近づくにつれて艦砲射撃がはげしくなり、母はそのために終戦のとき死亡して、爾来孤児となり、自分の国籍がはつきりしておらないというふうな事情でございます。
そうして大体日本人のおるところを次々と私聞いて歩いたのですが、大体日本人があるという真岡局内蘭泊村、野田町、泊居町、名寄村、それから珍内、それから惠須取の方の入りました鵜城、それらの大体停車場から一里なり二里入つた農村に多いのです。町には三家族乃至五家族泊居、野田といつたところにおる。
私が二十年の年に小駅の駅長をしておりましたが、駅長になる前に泊居というところの助役をしておりましたが、泊居の駅から小駅の駅長に転職しまして、その後家庭の事情によつて二十一年の六月に又泊居の駅に助役として戻して貰つたのであります。