1971-05-18 第65回国会 衆議院 文教委員会文化財保護に関する小委員会 第1号
昨年も私どもの研究所で、いままで全然遺跡の知られておらなかった豊浦の村の小治田宮と推定しているところを掘りました。昨年の当初に村の人と交渉しておりまして、私たちは先祖代々このたんぼを耕しているのだから、そんなところから何も出てくるはずがないんだということをたびたび言われました。でも少し掘ったら石が出るでしょうと言っても、そういうものはないというお答えだったのです。
昨年も私どもの研究所で、いままで全然遺跡の知られておらなかった豊浦の村の小治田宮と推定しているところを掘りました。昨年の当初に村の人と交渉しておりまして、私たちは先祖代々このたんぼを耕しているのだから、そんなところから何も出てくるはずがないんだということをたびたび言われました。でも少し掘ったら石が出るでしょうと言っても、そういうものはないというお答えだったのです。
その飛鳥、藤原地方の問題につきましては、遺跡の問題といたしましては発掘の問題が大事であるということで、実は四十五年度から二人の定員を奈良文化財研究所につけまして、さらに従来平城宮を発掘いたしておりました四人を加えまして、六人で飛鳥・藤原宮跡調査室を設けまして発掘をいたしておるわけでございまして、現在小治田宮についての発掘をいたしておるところでございます。
その最も重要なものは宮あとであり、当時の宮は天皇一代の間に少なくとも一回は移りかわったというので、この地に営まれた宮は、推古天皇小治田宮と呼びますが、それから皇極天皇の板蓋宮、それから天武天皇の浄御原宮など、総数二十カ所にのぼっているのであります。