2018-06-07 第196回国会 参議院 内閣委員会 第17号
私の好きな言葉に、修身斉家治国平天下という、こういう言葉がありますけれども、この言葉の持つ意味は、まず自分の身を修める、そしてしっかりと自分の家庭を収め、そしてその次はいわゆる地域というものを見詰め、そして祖国を愛し、そして世界平和を願うという、まさにこのことが私は基本だろうというふうに思います。
私の好きな言葉に、修身斉家治国平天下という、こういう言葉がありますけれども、この言葉の持つ意味は、まず自分の身を修める、そしてしっかりと自分の家庭を収め、そしてその次はいわゆる地域というものを見詰め、そして祖国を愛し、そして世界平和を願うという、まさにこのことが私は基本だろうというふうに思います。
こんな大変生意気なことは申し上げたくないんですけれども、修身斉家治国平天下といいますけれども、例えば、今回、御自身の、長坂先生の事務所のガバナンスの強化ということに御専念されて、一旦政務官をお退きになるというようなこともお考えになられませんか。
ちょっと古い言葉でございますが、修身斉家治国平天下って、これ何千年か前の中国の古典の言葉でございますが、身を修め家を整える、つまり、自分個人が充実し家庭生活が充実していくことが国を治めたり天下を平らかにするということにつながっていくというのは、今でいえば、今ワーク・ライフ・バランスというハイカラな言葉でおっしゃいましたけれども、そういうことにつながっていくんではないかと思っております。
彼は、神童の誉れ高く、その学徳が藩主に認められ、わずか九歳の折、将来は何になりたいか、こう問われたとき、治国平天下と答えたと言います。大学にある修身斉家治国平天下、身を修めて家をととのえ、もって国を治むれば天下は平らかである、この言葉を九歳の少年が堂々と述べたというので、皆びっくりしたそうであります。 彼は、京都や江戸へ出て学問にいそしみ、武士に取り立てられるまでに至りました。
御承知のように、経世済民、私たちの生活が安定して安全が保障されるようになって治国平天下、政治も人心も心が安定をするということにもなるわけでありますから、この社会保障の流れをきちっと決めていくためにはどうしたらいいかということについてちょっと論じたいと思います。 パネルを一つお願いを申し上げます。
友愛の精神は基本的に修身斉家治国平天下だと、これは礼記ですね。最後は個人の徳を積むことだ、こうおっしゃっておられる。 総理は内外に友愛という言葉を発したわけですから、内外に発するならば、霞が関が大ばかだ、こういうふうな発言はその友愛の精神に反していると思うんです。ですから、まずは内閣で友愛の勉強をされた方がいいと私は思う。 それと同時に、政治主導。
また同時に、今、統治機構といいますか、ある意味でその責任を持つ者の姿勢としては、古い言葉かもしれませんが、修身斉家治国平天下といいますか、みずから修めるということでなければならぬと思いますし、またそのためには天を敬い、やはり人を愛するという、そういう姿勢がなければならないと思っております。
修身斉家治国平天下と申します。身を修め家を整えることができる者こそ上に立てる人間であるという意味だと思います。私は、証人はどんなに苦況にあっても家を大切にしているその姿に大変な感激を覚えております。 恨みは水に流し、恩は石に刻めと申します。
だけれども、たとえば大げさなことを言えば、「修身斉家治国平天下」という、東洋のそういう道徳みたいなものがありますね。これは私は国家の永遠の理想だと思うんですよ。プラトンの哲人政治というのも永遠の理想だと思うんです。永遠の理想なんだけれども、同時にそのことのほかに、政治というものではいろいろわからないようなことがある。それもまあ子供にはわからないような。
私は論語の身をおさめ、家をととのえ、国を治め、天下を平らぐ、治国平天下というのは今でも原理だと思う。政治家はやはり自分の私生活を清潔にしなければ、国民の信を得ることができませんから、あなたの私生活についてもあなたの弁解を天下の人に聞かせたかった。それをあなたはなさらぬとするならば、これは国民があなたに対してかえって誤解をするのです。その意味で私は言っているわけだ。
つまり国民として一般の平等観に立つ上に、特殊の事情、特殊の職業、特殊の責任、それからについてそれぞれの差があるのが治国平天下の根本じゃないかと考えますが、それについてまず伺います。
にあずかっておるというような、そういうように内職八割で、あるいは九割で、そういうような人があなたのところにおるのですが、そんなような状態で、勤務評定を出して、あるいは道徳の説教をして、こういうことは全くつじつまが合わぬのでありますが、(牧野委員「ますます必要だと思いますな、道徳を教えたり勤務評定をやることは」と呼ぶ)今議席から牧野先生のお言葉でありますが、われわれが古くから覚えておる言葉に、修身齊家治国平天下
○松永国務大臣 高津委員の仰せの通り、修身齊家治国平天下、これはいつの時代といえども、私はそうだと考えております。従って今仰せのようなことが、もしも文部省内にあるといたしますれば、もうこれは是正していかなければならぬことは当然であります。しこうして、しからば文部省内に多少の指摘されるような、非難されるようなことがあるとして、ほかをほったらかしておくわけにいきません。
これは元来申し上げるまでもなく、いわゆる東洋の政治道徳と申しまするか、一つの政治理念であるところの修身、斉家、治国平天下のその根元から、修身というものが生まれたものであると思います。
で、書いてあることはみないいが、しかし大体服従といったような外からの教えですね、修身という名前は修身斉家治国平天下からきた言葉であるのです。ところが戦後は私はそれが変りまして、教育基本法というものは大体よくできておると思うのです。
文官であろうと、武人であろうと、みな四民平等であって、適材が適所につき、野に遺賢なからしむることが治国平天下の根本義であります。この大原則を誤まるときは国は乱れ、国は滅ぶることは古今東西を通ずる真理であります。すみやかに現在のような文武の差別待遇は一掃すべきものと考えます。
私は、この私のとつぴのごとく思えるであろうところの要求の理由を説明いたしまするかわりに、ここに先哲の残しましたる治国平天下、修身斉家、すなわちその意直うしてその身修まる、その身修まつてその家斉う、その家斉つてその国治まる、その国治まつて天下平らかなりとするところのこの言葉、この政治家倫理の規範を私みずからが心肝に銘じますとともに、吉田総理大臣以下各閣僚諸公につつしんで呈するものであります。
御承知のごとく中国では、修身斉家治国平天下――治国平天下というのは、すなわち国際道徳であると思つております。日本においてそれが足りない。そこで私はこの前文部大臣に質問いたしましたのには、日本の明治以来の道徳の教えは、明治憲法と教育勅語を中心にしてこれが二つとも権威をとにかく失墜したので、何をもつてそれにかえるかということに私自身も苦労しております。おそらく文部当局も苦労されておると思います。
そういう意味におきまして、どうか政府におきまして、この治国平天下の道をとられまして、そうして第一線のために優先的に心を置かれまして、この平衡交付金に対するところの予算的措置等におきましても、強くこの方面の実現を期待するのであります。
古い言葉を申しますれば、賢者位にあり、能者職にあり、しこうして治国平天下ということを言うておる。賢者が位になくて、能者が職にないから国が乱れるのだということは、昔の本に出ております。一次長検事を処理するために、大橋法務総裁自身が職を賭して闘わなくちやならぬということは、はたして賢者健在なりやということを言いたいわけです。ここに私たちの一つの憂いがある。