2014-03-28 第186回国会 参議院 本会議 第11号
まず初めに、三月十五日に永眠いたしました弟藤巻幸夫が生前皆様からお受けいたしました御厚情に、心から御礼申し上げます。 それでは、日本維新の会を代表して、総理並びに関係大臣に質問いたします。 安倍総理は、二〇一四年度予算に対し、経済の再生と財政の健全化を同時に達成すると強調されていらっしゃいます。史上最大規模の予算を組んでおきながら、財政の健全化と豪語してもよろしいのでしょうか。
まず初めに、三月十五日に永眠いたしました弟藤巻幸夫が生前皆様からお受けいたしました御厚情に、心から御礼申し上げます。 それでは、日本維新の会を代表して、総理並びに関係大臣に質問いたします。 安倍総理は、二〇一四年度予算に対し、経済の再生と財政の健全化を同時に達成すると強調されていらっしゃいます。史上最大規模の予算を組んでおきながら、財政の健全化と豪語してもよろしいのでしょうか。
弟、幸夫が土曜日、夜十時三十四分永眠いたしました。生前の皆様の御厚情に感謝いたしたいと思います。五十四歳、短い人生でした。 では、質問に入りたいと思います。 私は、アメリカのビジネススクールに二年間留学して修士号を取って、その後三年半、日本の銀行のロンドン支店で三年半働いて、その後十五年間、米系銀行に勤めておりました。最後の五年間は東京支店長兼在日代表という経歴を持っております。
三月十五日土曜日十時三十四分、弟、幸夫が永眠いたしました。生前の皆様からの御厚情に感謝いたしたいと思います。五十四歳、短い人生でした。 質問に入りたいと思います。 財政法第五条があります。日銀の国債引受けに関しての条項です、御存じだと思いますけれども。
まず、アメリカでございますが、アメリカにおきましては、国防総省の専門機関でございますJPAC、それから海洋大気庁などによりますと、日本と同様に、沈没艦船の遺骨収集は行っておらず、海が永眠の場所であるとされておるところでございます。また、ドイツでも同じような形で、遺骨収集はしておらないということでございます。
○舛添国務大臣 今議論がありましたように、海が永眠の場所であるということでありますけれども、御遺族、御家族の気持ちをおもんぱかれば、何としても遺骨を持ち帰って自分のお墓に一緒に祭りたいというのはあると思います。 厚生労働省としても関心を持って、今後とも引き続き何とかそこをできないか努力をしてまいりたいと思います。
○荒井政府参考人 今先生お話しされましたように、沈没艦船につきましては、古くから航行中の死亡者については水葬に付すことが広く行われていることなどに着目いたしまして、一般的には、海自体が戦没者の永眠の場所であるという認識に基づきまして、遺骨収集については原則的には行わないことにいたしてございます。
このうち、海底に眠る三十万柱につきましては、海深く沈んでおり実質的に収集が難しいこと、あと、戦没者の永眠の場所であるという認識も強うございます。そういう中で、なかなか難しい問題もございます。また、国民感情や宗教上の理由などで遺骨収集ができない地域が約二十六万柱ございます。
○政府参考人(北原巖男君) 今田村先生の御指摘の点でございますが、さきの第二次大戦におきます沈没艦船の乗組員の方々の遺骨の収集ですとか、あるいは今先生おっしゃいましたそのための艦船の引揚げといった点につきましては、古くから航行中に亡くなられた方々について、いわゆる水葬に付するといったことがこれまで広く行われてきたなどの事情に着目いたしまして、さらには一般的には海、海自体が戦没者の永眠の場所であるといった
○政府参考人(北原巖男君) 今申し上げましたのは、船で、軍艦等で撃沈等されまして沈んだ場合、海自体が、一般的には海自体がその戦没された方々の永眠の場所であるといった認識があったと、あるということを申し上げたところでございます。
○渡辺秀央君 実は、先般、私は個人的な感情を言うわけじゃないが、非常に不幸な環境で永眠された真藤さん、大変な私は貢献をされた人だと思うんです。 しかし、この人の力量、手腕を発揮する背景というのは、NTTの人たちの一丸となったこの民営化に対する、これはもう労働組合を始めとして経営者、本当に大変な努力をしたんです。
昨年末、私の大変尊敬する大先輩、加藤シヅエさんが百四歳で永眠されました。愛をテーマに女性の健康と地位向上のために生涯をささげられた加藤さんの精神を私たちはしっかりと引き継いでいく責任があります。 今国会で政府は、母子家庭に対する児童扶養手当の削減をしようとしています。正に小泉首相のおっしゃる痛みに直撃されている母子家庭を、あなたは更にねらい撃ちしようというのでしょうか。お答えください。
私ももともと大学時代ストレスの研究をしておりまして、人間にとって、例えばストレスというものが全くない状態というのは永眠についた状態でありまして、生存していることは不可能なわけです。地球というものも、その自然というものを考えたときには、ある程度の負荷というものが与えられながら地球全体が、ガイアという考え方もありますけれども、発展していくわけでございます。
○政府委員(土井豊君) 海没遺骨の収集についてでございますが、古くから航行中の死亡者について水葬に付するということは広く行われてきておりますので、そのような事情に着目しまして、一般的には海自体が戦没者の永眠の場所であるというような認識に基づいて、原則的には行わないという考え方をとらせていただいております。
基本的には海の人と いうのは航行中に死亡すれば水葬にするという考え方がありますので、海自体が戦没者にとっても永眠の地であると考えるかもしれませんけれども、しかし、最近ではマリンレジャーというのが非常にはやって普及してきまして、海に眠っているはずの遺骨が人目にさらされてしまう、遺骨の尊厳自体が損なわれるおそれがあるということもないとは言えない、こういう状況だと私は思うのですね。
一般的には海自体が戦没者の永眠の場所である、そういった認識もございまして、原則的には行わないということで今日まで至っております。 ただ、お話の中に御指摘がありましたように、御遺骨が人目にさらされてその尊厳が損なわれるような特別の状況にある、なおかつ、沈没した艦船内の遺骨収集などが技術的にも可能であるといったような場合には、例外的に遺骨収集を行うという形で取り組んできているところでございます。
十年たって睡眠が目覚めないならば、これはもう完全にいろんな理由で永眠預金と言っていいんじゃないですか、どうですかと言ったら、郵政の当時の局長さん、現実としてはそういうふうな御指摘と認めざるを得史せんと。 そういうふうなものとするならば、完全になくなってしまうというんだったらそれはお弔い山さにゃいけませんな。お弔いはふさわしい礼儀、常識程度に。
○政府委員(佐々木典夫君) 沈没艦船の遺骨収集につきましては、古くからの考えでございますけれども、基本的には航行中の死亡者につきましては水葬に付するということが広く行われてきたといったような事情がございまして、こういう点に着目しまして、一般的には海自体が戦没者の永眠の場所であるというような考え方に基づきまして原則としては行わないという考え方できておるわけでございます。
あるいはまた、それならうちの預金に睡眠預金が、永眠預金があるんだろうと。それはございません、十年たって経理上で収入に上げるだけで、後十年、二十年、三十年たっても預金通帳と印鑑を銀行に持っていけばちゃんと精算します、五十年たったら五倍にしてお返ししますと、こうおっしゃる。ところが、その五十年たってもいつでもお返ししますとおっしゃいます割に、十年たったらけじめとして収入で、収益金、利益金。
そういうふうなものの扱いについて国民の方から見えるように、経理上だとか業務上しゃなくて、見えるようにするためにすっきりとしたものにしていく、それを求めるのであって、その扱いが永眠か睡眠がとかじゃなくて、十年で区切られたのですから、区切られた時点においてはきちっとした処断というものを国民の方から見えるようにしていただきたい。もう一度お願いします。
それを睡眠と言うか永眠と言うかという問題でございますが、あえて申せば、いつでも目が覚め得る状況になっておるということは申せるかと思います。
睡眠の中に永眠という概念のものがあるかと、こう聞いておる。それだけ聞いておるんです。
それで歳出においても、トータルで還元というより、むしろ飢餓で苦しんでいらっしゃる世界の子供たちに、あるいは民間でボランティアの人たちが金の出どころがない、倉庫を借りるのに難儀している、こういうところに、歳出でも項目を設けて明確に、たとえそのようになりました睡眠、永眠的なものでありましょうとも、びた一文、国民の発展のために使っていますよと、これが少なくとも国が行われる事業で、後から民間がそうだとついてくるんじゃなかろうか
睡眠預金の中には永眠預金もある。永眠となりますと、これはお弔いを正確に山さにゃいかぬ、出し方に国民の納得が必要である、こういうふうな感覚で物を考えていかねば庶民が納得しない。これはすっと、何といいますか顔の見えると申しましょうか、こういうことを考えなきゃならないということをひとつ申し上げておきます。
○和泉照雄君 次は、外務省に中国東北地区の旧満州慰霊巡拝団の派遣についてお尋ねしますが、御承知のとおり中国東北地区には多くの同胞が倒れて永眠いたしておりますが、そこで昨日訪中した大平総理に対する旧満州引揚者による慰霊巡拝団派遣実現の期待は絶大なものがあるようであります。
長子の成長につれ一家は去る四十六年石巻市に 移住することとなりましたが、妻みどりさんは 長い御心労が禍いしてか五十一年六月発病し、 八ケ月余の闘病生活のすえ夫の無罪を信じつゝ も痛恨のうちに五十二年一月二十日永眠された のであります。惜しむらくは李得賢の仮出所 が、妻みどりさんの存命中せめてもう六ケ月早 く行なわれていたならばと悔まれてなりませ ん。
一つの詩がありまして、それは「いまここに捨て去りゆく 住みなれし懐しのふるさと祖先が伝えしひな唄も この地に絶えて十余年山林田畑も毒に浸り 人の情も荒れはてる 家も垣も傾むき 訪れる人もなし」「いまは涙も枯れはてて 祖先が永眠る墳墓の地を ふりかえりふりかえり 見も知らぬ山河もとめて」こういう歌がありまして、これは節をつけて歌うそうでありますけれども、実に不当な弾圧で取りつぶしをされたその村をあとに