2007-05-15 第166回国会 衆議院 国土交通委員会 第18号
そういうことを考えると、この年表によりますと、一八六九年に民部省に地図掛ができるわけですが、その二年後、七一年に兵部省陸軍参謀局に間諜隊を設置しまして、そこへ籍を移したようですね。 これは院長、どういうことでこの兵部省に置くことになったんでしょうか。地理あるいは測量という点からいって、そんなに軍事的な要素はないんじゃないかと思うんですが、その辺ちょっと御説明いただけませんでしょうか。
そういうことを考えると、この年表によりますと、一八六九年に民部省に地図掛ができるわけですが、その二年後、七一年に兵部省陸軍参謀局に間諜隊を設置しまして、そこへ籍を移したようですね。 これは院長、どういうことでこの兵部省に置くことになったんでしょうか。地理あるいは測量という点からいって、そんなに軍事的な要素はないんじゃないかと思うんですが、その辺ちょっと御説明いただけませんでしょうか。
歴史のことを申し上げますと、地理院というのは、測量あるいは地図作成を行う国家機関ということで、明治二年に民部省の中に戸籍地図掛というのがつくられました。国の基本ということで、新政府早々にこれができたわけでございます。その後、内務省地理局という名前を経まして、その後は、軍の機関であります参謀本部の測量局の方に一本化されます、たしか明治十七年だと思いますけれども。
○藤本政府参考人 今先生お話しの「地理院のあゆみ」の中に、一八六九年、民部省に戸籍地図掛を設置と書いてあります。七一年には、兵部省、これは軍の組織でありますが、陸軍参謀局に間諜隊を設置した。これは、もともと性格の違うものが、両方の組織ができている、こういう状況でございます。
当時、ヨーロッパ、イギリスからも非常に高い評価を得て、明治時代、幕末の日本が救われたというふうな逸話も幾つか残っておりますけれども、技術的にはそれは必ずしも十分伝承されておりませんで、明治に入りまして、明治維新の後すぐに国土地理院の前身になります民部省のところに戸籍地図掛というのが設置をされております。
当時既に主計寮と主税寮というのがありましたが、これは大蔵省ではなくて民部省の所属でありました。以来、明治まで千二百年間このまま推移しましたが、明治になって大蔵省に民部省が合併されたり、また分離されたりという変遷を経ながら、今日のような権限の集中した省になったようであります。
明治三年には民部省の社寺掛、次に三年−四年に民部省寺院寮、大蔵省戸籍寮社寺課、これは明治四年。神祇省、教部省、内務省の社寺局、これは明治十年、それから内務省の神社局、宗教局、文部省の宗教局、昭和になってからでも、神祇院とか文部省の教化局宗教課、今日では文部省の宗務課ですか。宗務課長どなたですか、宗務課長見えているの。