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11件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2003-05-29 第156回国会 衆議院 憲法調査会 第7号

会議における参考人意見陳述の詳細については小委員会会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、  参考人からは、  まず、明治憲法制定に関するこれまでの普通の憲法成立史には、自由民権運動を重視する民権派伊藤博文らによる憲法制定の作業を重視する体制派の両者の憲法史相互関係、及び明治憲法制定過程と実際の運用に当たっての問題点との関連性が、ともに考えられてこなかったという問題点

保岡興治

2003-05-08 第156回国会 衆議院 憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会 第4号

植木枝盛の言葉を使ったら、民権派国権派との相克という姿が一つあったと思うんです。  それから、もう一つは、諸外国との関係で、やはり近代国家の仲間入りするために形をとらなきゃいけませんので、この点に、私は伊藤博文の法という問題の一つの背景があるように思うんですが、先ほど参考人が、結局、箔をつけたんだというお話をされました。  

山口富男

2003-05-08 第156回国会 衆議院 憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会 第4号

ここに、自由民権派もみんな各地へ戻って、福沢の交詢社の私擬憲法を直しながら、自分たちの草案をつくって全国から戻ってきますね。そうなりますと、リベラルが中心になってくる、中道よりも。それに対して左派は、もうやっていられないよ、そんな憲法は嫌だ、我々は自由党という政党をつくって藩閥政府に抵抗する核をつくる、それを地方に固めるんだと、板垣退助福沢グループに対してそっぽを向くんです。

坂野潤治

2002-07-04 第154回国会 衆議院 憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会 第5号

そうすると、その時期に、明治憲法への流れと同時に、先ほど少し民権運動お話も出ましたけれども、自由民権運動の中やあるいはその周りで民権派憲法構想も随分生まれました。  その代表的な例は、やはり植木枝盛の、人権の保障を前提にして人民主権抵抗権まで明記したような、ああいう到達が一つあったと思うんですね。

山口富男

1989-10-13 第116回国会 衆議院 予算委員会 第3号

そのときの政治情勢というのは、いわゆる自由民権派流れをくむ立憲自由党立憲改進党、自由党、改進党といっていたこの勢力が常に衆議院の過半数を占めてまいりました。そうして、ことごとく藩閥政権と対立をいたしておったわけであります。したがって、解散に次ぐ解散でありまして、何回も選挙をやりました。

森清

1983-02-05 第98回国会 衆議院 予算委員会 第5号

それはちょうど、あのころ大隈さんや板垣さんの自由民権派国会開設を非常に要求した。片っ方の藩閥政権の方はそれに対して対抗しておったわけです。そうして、非常に政局が混乱をしてピンチ状態になった。そのときに両方がその線で一致した。中長期の計画をつくって、そうしてお互いが——あのころ昔は、壮士なんというのがおって、刀を使ったり何かした時代ですね。

中曽根康弘

1983-01-28 第98回国会 参議院 本会議 第3号

御存じのように、明治におきまして自由民権派が非常に活動を開始いたしまして、西南戦争明治十四年におきましては、大隈さん一派内閣を脱退いたしまして非常に政局が揺れたことがあります。国会早期開設を要求した動きでございました。それに対して明治天皇を初め時の内閣の、そのときは太政官制度でございますが、みんなでいろいろ相談しました結果、中長期の路線を設定したわけです。

中曽根康弘

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