2013-11-27 第185回国会 参議院 国の統治機構に関する調査会 第2号
この追及型の国会というのは、明治の議会ができたときに藩閥政府に対する自由民権派の野党の追及手段としてできた方式、一問一答方式でありまして、ほかの各国の議会は法律を作ることに専念しているんです。法律を作って、それで政権を縛ればいいんです。
この追及型の国会というのは、明治の議会ができたときに藩閥政府に対する自由民権派の野党の追及手段としてできた方式、一問一答方式でありまして、ほかの各国の議会は法律を作ることに専念しているんです。法律を作って、それで政権を縛ればいいんです。
かつて明治時代に、自由民権派の中江兆民は、その著作「三酔人経綸問答」の中で、上から恵み与えられる恩賜の民権と下から進んでとる回復の民権について触れました。そして、最初は恩賜の民権であっても、市民がこれを大事に守り育てればいつか回復の民権に等しくなると述べています。
会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、 参考人からは、 まず、明治憲法の制定に関するこれまでの普通の憲法成立史には、自由民権運動を重視する民権派と伊藤博文らによる憲法制定の作業を重視する体制派の両者の憲法史の相互関係、及び明治憲法の制定過程と実際の運用に当たっての問題点との関連性が、ともに考えられてこなかったという問題点
植木枝盛の言葉を使ったら、民権派と国権派との相克という姿が一つあったと思うんです。 それから、もう一つは、諸外国との関係で、やはり近代国家の仲間入りするために形をとらなきゃいけませんので、この点に、私は伊藤博文の法という問題の一つの背景があるように思うんですが、先ほど参考人が、結局、箔をつけたんだというお話をされました。
ここに、自由民権派もみんな各地へ戻って、福沢の交詢社の私擬憲法を直しながら、自分たちの草案をつくって全国から戻ってきますね。そうなりますと、リベラルが中心になってくる、中道よりも。それに対して左派は、もうやっていられないよ、そんな憲法は嫌だ、我々は自由党という政党をつくって藩閥政府に抵抗する核をつくる、それを地方に固めるんだと、板垣退助は福沢グループに対してそっぽを向くんです。
同時に、そのときのことがありますから、木戸孝允たちは明治政府の藩閥政府の長州のあれでありながら、明治七年、八年のときに、土佐の民権派と非常に仲よくするんですね。 ですから、その伝統というのはやはり幕末にある。
そうすると、その時期に、明治憲法への流れと同時に、先ほど少し民権運動のお話も出ましたけれども、自由民権運動の中やあるいはその周りで民権派の憲法構想も随分生まれました。 その代表的な例は、やはり植木枝盛の、人権の保障を前提にして人民主権で抵抗権まで明記したような、ああいう到達が一つあったと思うんですね。
そのときの政治情勢というのは、いわゆる自由民権派の流れをくむ立憲自由党、立憲改進党、自由党、改進党といっていたこの勢力が常に衆議院の過半数を占めてまいりました。そうして、ことごとく藩閥政権と対立をいたしておったわけであります。したがって、解散に次ぐ解散でありまして、何回も選挙をやりました。
あのときは大隈さん一派の自由民権派が内閣を飛び出して非常に政局が揺れたときでございましたが、そのときに日本の先輩たちの知恵によって長期的、あるいは中期的な軌道設定をやって、国民的コンセンサスをつくった。
それはちょうど、あのころ大隈さんや板垣さんの自由民権派が国会開設を非常に要求した。片っ方の藩閥政権の方はそれに対して対抗しておったわけです。そうして、非常に政局が混乱をしてピンチ状態になった。そのときに両方がその線で一致した。中長期の計画をつくって、そうしてお互いが——あのころ昔は、壮士なんというのがおって、刀を使ったり何かした時代ですね。
つまり明治十年の西南戦争があり、明治十四年になりましていわゆる自由民権派が憲法の制定を非常に強く迫り、民選議院設立の運動を強力に、しかも急激に進めてきたときがございます。その非常な政治的ピンチがあったときに、明治十四年に中長期の構想をつくりまして国政を安定させた。
御存じのように、明治におきまして自由民権派が非常に活動を開始いたしまして、西南戦争後明治十四年におきましては、大隈さん一派が内閣を脱退いたしまして非常に政局が揺れたことがあります。国会の早期開設を要求した動きでございました。それに対して明治天皇を初め時の内閣の、そのときは太政官制度でございますが、みんなでいろいろ相談しました結果、中長期の路線を設定したわけです。
それは、明治十四年の政変を頭に置きまして、あのときに自由民権派の大隈さん一派が内閣を出まして、政局が重大な危機に襲われました。