2016-11-17 第192回国会 衆議院 憲法審査会 第2号
そして、十条として総司令部に持ち込んだのだけれども、先方も我々の案に同意してくれたのだけれども、その喜びもつかの間、相手方がしばらく中座していたのが戻ってきて、実はあれはホイットニー民政局長みずからのお筆先になる得意の文章であり、どうも削ることはぐあいが悪い、せめて尻尾の方の第十章あたりに復活することに同意してもらえないかと言い出したと。
そして、十条として総司令部に持ち込んだのだけれども、先方も我々の案に同意してくれたのだけれども、その喜びもつかの間、相手方がしばらく中座していたのが戻ってきて、実はあれはホイットニー民政局長みずからのお筆先になる得意の文章であり、どうも削ることはぐあいが悪い、せめて尻尾の方の第十章あたりに復活することに同意してもらえないかと言い出したと。
佐藤氏が指摘しているように、ホイットニー民政局長の意向で入ったので、これは外し得なかったというやりとりがあったことも、これも恐らく事実でしょう。 しかし一方で、佐藤氏は最後にこうも発言をしているわけですね。
それで、憲法の成立過程、余り言うと時間がありませんので、最初は実は戦争そのものを放棄していたんです、マッカーサー・ノート、それをケーディスという総司令部の民政局長がその部分を削除したんです。それが第一。それから、芦田修正がありますね、自衛のためだったら戦力を持てる。 これに対して、この後が言われていないんですけど、非常に強い反応を示したのは極東委員会なんです。
委員が御指摘のように、松本担当大臣のもとに日本の案を、甲案、乙案をつくる中において、たしか毎日新聞の西山柳造記者がスクープをするわけでありまして、このスクープを見たGHQ側が、もはや日本側に任せておくことはできないという中において、今おっしゃったように、ホイットニー民政局長そしてケーディス次長が中心になって二月四日にこれをつくるように指示をし、そしてでき上がったのが十二日、こう言われているわけであります
ところが、総司令部、GHQ側は、実は、あれはチーフであるホイットニー民政局長のお筆先になる得意の文章であるので、削るのはぐあいが悪い、何とか尻尾の方、第十章あたりでいいから残してくれないかということで、これを第十章の冒頭に規定することにしたのだが、その際、逆に、第十一条後段を削りそびれて、こちらも残ってしまったというのでございます。
現行憲法の制定過程を見ると、九十七条のもととなった総司令部案十条が、GHQ、ホイットニー民政局長のじきじきの起草によることから、政府案起草者がその削除にちゅうちょしたのが原因であることが明らかになっています。 我が党は、基本的人権の尊重の理念は憲法上の重要な要素と考えますが、同趣旨の規定を重複して設ける必要はないと考えます。
しかし、今の昭和憲法は、これは先ほど日本が作ったという議論もございましたが、しかし、事実として、昭和二十一年の二月の四日にホイットニー民政局長がケーディスに命じて二十五人の委員で約八日間で作ったものでございまして、原文は英語でできておりますから、日本側がそれを、英語を日本語に訳したものがまさにこの現在の日本国憲法の原型になっているということでございます。
甲案、乙案というのを考えていたわけでございますが、これは二月一日に毎日新聞がスクープしたわけでありまして、このスクープした案を見てマッカーサーが激怒して、そして二月の四日にホイットニー民政局長とケーディス次長を呼んで、もう日本には任せておけないから、これは私たちでつくろうという指示をホイットニーとケーディスに出して、そして、ホイットニーがケーディスに対して、委員会をつくってつくりなさい、そして二十五人
一九四六年二月十三日に外務大臣公邸でGHQの民政局長ホイットニーが吉田茂外務大臣、松本烝治憲法の改正担当国務大臣と会見した際に、松本国務大臣がすぐその場で、一院制では選挙で多数党が替わるたびに前政権が作った法律を全て変更して政情が安定しないことを指摘して、二院制でやっていきたいということを言っているわけでございます。
その上で、GHQ側、ホイットニー民政局長は、そうであれば、両院とも公選だ、直接公選だということを前提に二院制でもいいというふうにGHQ側は言われたというふうに書いてございます。
その結果、義務的で例外のない憲法改正国民投票制の導入は、GHQ草案作成の最終段階で、マッカーサー総司令官とホイットニー民政局長の二人だけで急遽決定されたもので、GHQ民政局内部では検討されていなかったことが明らかになりました。また、GHQ草案の日本政府への提示後に両者の交渉で一院制の国会を二院に改めた際にも、一院制の国会という言葉を、平仄を合わせて二院制の各議院に改めただけでした。
そして、マッカーサーがこれをホイットニー民政局長に伝えた後、二人による話し合いがなされて、あらゆる改正に国民投票を要するという現憲法の制度が採用されました。民政局のほかの幹部も事後に知らされて驚いた、日本側に手渡す前日あるいは前々日の深夜の大逆転でした。 ここでマッカーサー、ホイットニーが考え出した憲法改正国民投票制度は、当時は世界的にとても珍しい形のものでした。
資料の1の方ですけれども、一番上のところで、ホイットニーGHQの民政局長が、一九四六年二月に憲法草案について日本側の要人にこう言って提示したわけです。「この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると思います。」と。
また、九十七条につきましては、経緯は多分に偶発的要素と、こう言っておりますけれども、これはホイットニー民政局長が自らこの条項を立案して、そうしたことで総司令部に我が国も配慮した条項と言われていることを指しておると思うんですけれども、この偶発的要素があったとした上で、人権保障こそが日本の最高法規であることを確認する意味からも十分に存在理由があるんだと、あっさりと削除されてよいものではない、このように述
それについて上に上げましたところ、マッカーサーと上司であるホイットニー民政局長はそれを了承したというところで、GHQのトップ三人においては既に了解がなされた。しかし、日本側はそのようには考えませんで、徹底した平和主義、自衛の戦争すらも放棄したものと、それでなければ許されないというふうな認識を広く持ったわけであります。
アメリカにまだ、前文をつくった御婦人とか、天皇、第一条をシンボルとした青年たちが、当時のホイットニー民政局長の下で、十九人の若い人たちが司令部でこれをつくったらしいんですけれども、皆さん、私たちの憲法を、改めて、これを土台にしたらいいですから、やり直してみませんか。 以上でございます。失礼しました。
これも、今いろいろ資料がございまして、読むと極めて興味深いのですが、ホイットニー民政局長のもとでメンバーがやった。そして、マッカーサー三原則とアメリカ憲法及び州憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、ソ連憲法、それから前文はアメリカ憲法とリンカーンのゲティスバーグ演説、テヘラン会議宣言等々が参照された。そして、その当時出していた日本案はほとんど重要視されなかった。
そして、一カ月そこで勤めたころ、二月四日の朝十時に民政局長ホイットニー准将が私たちを呼んで、次のことを発表しました。あなたたちはきょうから憲法草案制定会議のメンバーになりました、これは極秘です、あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草案をつくるのが任務です。これを聞いたのは二十人ぐらいでした。みんな随分びっくりしました。
御承知のように、昭和二十一年の二月三日、マッカーサー・ノートというものが、ホイットニー民政局長からケーディス以下の民政局の実務レベルに手渡されました。そのマッカーサー・ノートは、三原則と呼ばれておりますけれども、その第二項におきまして、侵略と自衛の双方の戦争を明確に否定していたということは御承知のとおりかと思います。
したがいまして、先ほどの毎日スクープがあって、その翌日から日本語訳が出るわけですが、何と日本語訳が出る前に、マッカーサーの懐刀であるホイットニー民政局長は早速マッカーサーにあてて進言をいたします。どんな進言をしたかということですけれども、時間のない中ですけれども、大事なことですのでちょっと読ませていただきます。 「最高司令官のために」というメモランダムをつくっております。
最終的にはホイットニーが、民政局長がうんと言わなきゃだめだ。一番若かったのがハッシーでしょうけれども、とにかく四十代、五十代の男性たちが、こんな細かいのはもういいよということで切っちゃうわけですね。たしか、その本に彼女は、泣いたというふうに書いてあると思います。
第二に、私のインタビューで受けた強い印象は、民政局長がホイットニーでありますけれども、ホイットニーの命令によりまして、二月四日から十二日にかけて、すべての業務をほうり出して、日本国憲法の草案の起草に着手をしたわけであります。インタビューした強い印象では、職務に対して非常に忠実かつ懸命に努力したということはひしひしと感じました。特に、ベアテ・シロタ・ゴードン、この方は当時二十一歳でありました。
ところが、その憲法の日本の政府のつくった案が新聞にスクープされまして、そして急遽司令部の方はホイットニー民政局長を中心に数人のスタッフをして司令部で憲法の草案をつくって、そして松本国務大臣のつくった、日本の政府側のつくった憲法草案ではなくて、司令部がみずから憲法草案をつくって、それを英文のまま日本政府に示して、これをもとにして日本の憲法をつくれ、しかもいろいろ注文がついておりまして、前文であるとかあるいは