2019-06-03 第198回国会 参議院 決算委員会 第9号
徳川幕府時代に毛利藩によって開墾され、年間穀物が千石取れていたことから千石台と名付けられた。戦後の苦労は大変なものですよ。
徳川幕府時代に毛利藩によって開墾され、年間穀物が千石取れていたことから千石台と名付けられた。戦後の苦労は大変なものですよ。
毛利重就は第七代の毛利藩の藩主でありますが、厳しい藩財政の中で、検地、いわゆる増税を行い、その財源を藩の一般会計ではなくて特別会計にまとめまして、未来への投資に回し、国力を回復した、こういう話であります。その結果、総理は、長州は維新回天の基礎を築くことができた、こうおっしゃっていただいた。 記者会見の折でありますから、時間が短かったと思っております。もう少し話を聞きたかったのであります。
政令市というのは、横浜の三百五十六万を筆頭に、今度生まれます静岡、それから多分あそこのもう一つ、静岡のこっち側の遠州の方の浜松というところも多分八十七万、新潟も多分それを超えますので、政令都市の方が県より大きいというところが十五、六出てくるんだと思いますので、そういったことから考えますと、ちょっと鳥取と島根と合併しろとかあの当時も随分いろんな御意見が出た記憶があるんですけれども、これまたなかなか、毛利藩
毛利藩の下級武士の子弟が集まって吉田松陰の周りでいろいろな話を受けたわけでございますが、実質は約八十人、又聞きを入れると二百人とか言われます。半数の人たちがみずから命を捨てるまでのことをやって、これだけ画期的な近代革命に成功したということが欧米の教育界で非常に話題になったということでございます。
御案内のとおりに、日本が短い間にこれだけの近代化をいたしました百年の歴史の前には、長い教育に対しまする非常な関心と努力が積み重ねられてあったわけでありまして、御案内の長野県を中心といたしました寺子屋でありますとか私塾、あるいはまた毛利藩や水戸藩や岡山藩池田侯なんかのところの官学あるいは藩学、いろいろと私塾等もたくさんあったわけでございます。
ただいま古い毛利藩のお話が出ておりますが、この先輩がいろいろ考えましたことなども、非常に封土が広い際の考え方と、非常に狭められた後の藩政をまかなう場合の工夫、これなどは当時の人たちとして、当時考えられる最大のものを考えたのだと思いますが、わが国の経済につきましても、国際経済において一そうその力を発揮すると、こういうためには、自然的環境なり、あるいは未開発の資源開発なり、あるいはまた、国民の重圧になっておるものに
○小柳牧衞君 この問題はきわめて重大な国策の一つであると存じますので、政府としましては協力一致して勇敢に実行していただきたいと思うのでありまするが、実は私は往年山口県庁に勤めたことがあるのでありまするが、その際に、大蔵大臣も御存じと思いまするが、毛利藩が関ケ原に敗れまして、中国の八カ国の領土を防長二州に削られまして、その後毛利藩がそのあとを受けまして、その力を伸ばすことに努力したことは実にすさまじいものがあるのでありまして
また村田清風という人がたしかおったはずでありますが、その当時毛利藩は数十万両の借金を持っておった。ところが毛利藩をいかにして発展させるか、長州をいかにして発展させるかということは、教育以外にはないというので、当時数十万両あった上にまた三十数万両の借金をして、あらゆる教育施設、文化施設にこれを投じた。人物の養成をしてこそ初めて毛利藩の発展があるのだという決意のもとにやられた。
古い例を出しまして非常に失礼でありますが、かつて長州の毛利藩に村田清風という学者がおられました。一番年の若い末席家老であつて、当時の長州藩が数十万両の借財を負うて四苦八苦をしておる、そのさ中に、いわゆる家老会議でもつて借財に借財を重ねて、新しく数十万両の借財を背負つて、それを全部教育施設へほうり込んだ。
教育費について、毛利藩の家老が非常な努力をされた、三十年かかつてやることでも、もしこれを急がなかつたら、三十年休むに似たりで、あまりできません。せつかちにできるだけの努力を瞬間々々にやつて、三十年やつてこそ、初めて効果がある、その意味におきまして、私は非常にせつかちでございます。