1994-12-07 第131回国会 参議院 厚生委員会 第10号
その日、私は学友と二人で、強制疎開によってできた木材を薪にするから持ってこいという教官、元帥範学校教官、当時比治山女学校教官の命を受けていました。
その日、私は学友と二人で、強制疎開によってできた木材を薪にするから持ってこいという教官、元帥範学校教官、当時比治山女学校教官の命を受けていました。
しかし、広島市の総合都市計画の中で、現在比治山公園という中にあるのですが、そこから広島市内へ、広島大学の跡地へ移転するという計画がございます。日本側は決して後ろ向きではないのですが、アメリカ側が財政上の理由、また費用の日米折半の原則という二つの理由から、非常にこの移転に難色を示しているわけでございます。
そこで、放影研は今広島の場合には比治山の上にあるわけですね。だから、これは市民感情からいいましても長い間議論されておりまして、あそこにぽんとあってまるで占領軍が君臨しているようじゃないか、そして被爆者に集まってこいというようなことで、たとえ連絡に行くにいたしましてもそういうことの議論があるわけです。
広島市は、放影研が建っております比治山公園の用地が国有財産であるために、それを所管しております地元の財務局と取得方法等について、いろいろ話し合いをしておるということも承知をいたしております。
比治山の現在のところの建物は、アメリカが当時やったわけです。かまぼこ型の建物をやったわけですね。しかし広島市は、それを移転したならば、その跡を公園の新しい施設として、いろんな施設として使いたい、こういう計画があるわけですね。
○大原(亨)委員 それで放影研を、広島、長崎にありますが、これをそういう規模で調査を継続して、影響調査について、線量見通しについて最近も若干の結論を出しておりますけれども、これはかなり権威のあるものであるというふうに言われておるわけですが、それはまだその問題といたしまして、じゃ放影研を安定的に維持するということになりますと、比治山の上の方にあるのはおかしいわけですよ。
ところが、この敬けんな気持ちで次のコースであります広島市内を一望できる比治山公園に登りますと、途端に眼前に浮かんできますのが老朽化した低いかまぼこ兵舎型の放影研の建物でございます。この建物を見た第一印象はと申しますと、私くらいの五十代の年配の方は口をそろえて、米軍、これを思い出すと言っております。
しかし、広島市におきましてはその放影研の移転を、比治山公園というのはある意味では広島市のシンボルでございますから、そういう強いお気持ちがあることをよく承知いたしておるわけでございます。したがいまして、先ほど局長から説明のありましたような、移転問題を含めまして研究体制全体のあり方について考えたいということでございます。私もその検討を鋭意進めてまいりたいと思っております。
○森井委員 じゃ、時間がほぼ参りましたから最後の質問ですが、最後に一問だけ放影研の問題について、きのう検討委員会をおやりになったようでございますが、広島の場合、放影研は、いまのかまぼこ兵舎のある、しかも広島のシンボルと言われますいまの地区、比治山というところですが、これはもうまずい、移転をしようということで、附帯決議等でいろいろ確認をしてきておるわけでございますが、移転の問題についてはどのようにしておるのか
私はこの問題について、私の見解を申し上げておくわけですが、つまりそういう経過があって、たとえば広島の場合でございますと比治山の上にございまして、しかも、かまぼこ兵舎という形で市民の上にあるというふうなことであります。患者あるいは被爆者の立場から見てみましても非常に貴重な検査をするわけです。
心してこれからも改善をしてまいりたい、こう御答弁をいただいたわけでございますが、そういたしますと、広島の場合ですけれども、一体放影研は現在の比治山の位置でいいのかどうなのかという問題です。高台にございますけれども、なかなか近寄りがたいという感じが一つございます。
○玉木参考人 ただいまお話しの比治山から町の中へおりたらどうだという地元の御要望があるということを以前からときどき承っておりました。ごく最近、広島市の当局から非公式にそういうお話もあったのでございます。
ということにいたしておりまして、内部省令で支所の名称及び位置は広島原子爆弾影響研究所、広島県広島市比治山、長崎原子爆弾影響研究所、長崎県長崎市桜馬場町というふうに法的根拠がなっておるわけでございます。
しかし、ABCCが広島の比治山の上に君臨的に存在するものですから、民族的な感情その他において非常な問題があった。ただし、五十年規模で長き世代にわたる、あるいは普遍的な調査をするということの意義については、私は今日まで議論の範囲においては理解をしているのです。
あと二十八メートルの道路が比治山を通って縦横に突き抜けるわけですよ。そういう町づくりのために、そういう基幹的な道路のために区画整理で減歩とかその他あるわけですよ。そういうときに、ぺんぺん草がはえておるような、遊び場になっておるような線路が残っているというふうなことはおかしいではないか。だからそれと一緒にこの問題を解決してもらいたい。
最初に、きょうは建設省の出席も願っておるわけですが、宇品線と関係があるから言うわけですが、最後に旧広島市内における区画整理の地点として残っておる段原地区の区画整理が非常に大きな問題になっておるわけですが、これは原爆が落ちた爆心地から反対側で、比治山の東側の残った地域がスラム化しておるわけですが、消防車も入れない、何とかしょう。しかし零細な地主が非常に多い。借地借家人その他の利害が錯綜している。
○大原委員 広島の原爆で比治山の片面が焼け残った、その山の一番上にABCCがあって、まるで特権的に君臨しているようだ、こういういろいろな議論がある。私は一々のことについて神経過敏にどうこう言うわけではないが、ほんとうに日本がこれに対して取り組むのであれば、それは下に下に折れてやるべきだ。市長なんかもそういうことを言っているわけです。
たとえば千五百平方メートル以上の危険校舎がある最も広いのは、宇品小学校、比治山小学校、大河小学校、仁保小学校、青崎小学校、草津小学校というふうな、そういうふうなところがあるというふうに、一般にこの問題に関連をして報道され、認識されておることは事実であります。
そういう広島市の平和都市建設の中で、残るところは、原爆スラム街の問題とか、あるいは比治山の西部のほうの段原地区で、火事になったらたいへんだというところがあって、都市計画では三十六メートルの道路をつくるというけれども、五、六メートルの道路しかない、いまだににっちもさっちもいかないというところもあるわけであります。
それから広島——比治山公園一周、広島モノレール観光株式会社からの申請、それから北海道不動産株式会社から申請しておりまする日光の霧降高原のモノレール、それから名古屋鉄道株式会社が申請しておりまする犬山公園のものと、それから大阪南地興業が申請しておりまする大阪市大黒橋から日本橋の間にモノレールを敷こうということでございます。呉市の申請はまだ当局としては受け付けておらないのでございます。
全く焼野原でぼつぼつ官舎は建ちかけては、家は建ちかけてはおりましたが、最小限度の店舗と最小限度の住宅だけでございまして、残るものはうちらの一角と比治山の一角が漸く残つておつたような状況でございます。