1989-11-10 第116回国会 衆議院 外務委員会 第2号
これは、中国側は最近戒厳令をやめて、そして実質的に廃止して、軍隊における北京制圧を武装警官隊によるものに変えた。つまり、私どもの主張に似たやり方ではございますが、機動隊型の制圧というものに切りかえた。またポスターあるいはデモあるいは演説等について、集会ですね、許可制で認めるという形にすることによって憲法の規定を一部改正した。そこまでやってきた。
これは、中国側は最近戒厳令をやめて、そして実質的に廃止して、軍隊における北京制圧を武装警官隊によるものに変えた。つまり、私どもの主張に似たやり方ではございますが、機動隊型の制圧というものに切りかえた。またポスターあるいはデモあるいは演説等について、集会ですね、許可制で認めるという形にすることによって憲法の規定を一部改正した。そこまでやってきた。
調べてしまって、それで本店には取引関係がないということがわかっているにもかかわらず、本店に対して武装警官隊やなんか行ったという事実がありますが、これは本店にはどうして行ったのですか、この点。
○広沢(賢)委員 そうすると、名前を間違えて、それでもって武装警官隊が三百入行ってがたがたにしてしまって、そのあとどうするのですか。がたがたにしてしまったあとで、お金もなくなったとか、領置目録もつくらないということで、私は済まないと思うのですが、その点。
無理に無理を重ねているから、十月十日のくい打ちにしても、二千に近い武装警官隊を前面に押し出さなければ三本のくいも打てないというような状態が一つ。そういうようなことを繰り返しているのです。いま現地に入っているのは私服警官とガードマンでしょう。あとはさっき言ったような詐術を弄している用地屋ですよ。まじめな者がだれが一人入っていますか。こんなことで何ができますか。
それをあの武装警官隊を二千名近くも押し出してきて、ガードマンを擁護して——ガードマンは営業でやっているのですよ。その営業者を擁護するために武装警官隊を前面に押し出してきて、あれからですよ、農民が激化してきているのは。その責任はあげて政府側にあるということを私は指摘して、終わります。
武装警官隊ですよ。そういうことによって行なうべき事業というものが、この世の中にあるのかどうか。一体この公団のやったやり方は、あなたあれを承認されますか。
去る十月十二日夜、明治公園における日韓・ベトナム十万人集会のあと、デモ行進が請願のため国会付近に参りますと、待ちかまえた武装警官隊は、装甲自動車を道路に直角または斜めに駐車させて通行を妨害し、要らざる挑発的行為に終始したのであります。
それを百里原において武装警官隊まで動員してやるという必要がどこにあるのですか。これは戦争中でもなかったことです。一体このような強硬手段をとるというのはどういう理由ですか。
しかも広い国有地があって、中に私有地があった場合、国有の土地はとってしまったのだから、私有地は少いから、これは武装警官隊を何十名入れようが、あるいは土方をたくさん入れて暴行させようが、二人や三人だったらやってしまえという考え方ならば、これはとんでもない迷惑です。こういう場合の個人の土地に対する権利は尊重するつもりですか。
これは少数の者だからいいというので、土方をたくさん入れて武装警官隊を動員して多大の国費を使って、なぜこういうことをやるのですか。これは明らかに力をもってする脅迫じゃないですか、そう思いませんか。
二十人の議員団に対して二千名の武装警官隊を向ける必要がどこにあったのです。一般の組合員や支援団体は交通妨害をしておらぬでしょう。議員団がずっと前面に立っていて、もう少し話し合ったらいいじゃないか、あそこまでいくと激突するんだから、激突を避けるために、最後まで流血の惨事を起さないために話し合おうじゃないかと言ったのに、二千名の警官の予備隊の動員が何の必要がありますか。
其のピケ破りが不成功に終ると同時に四列に並んだ武装警官隊がピケ隊とピケ破りとの問に割り込んで来た。 私等は前からいざこざが起つた場合は、警官隊が仲裁に入るという事を聞いていたので、この時も警官隊が仲裁して呉れるものと信じて居ました。
そのときの御幸橋付近の状況というのは、国道及び御幸橋付近には武装警官隊が約五百名ぐらい待機しておられた。更に又一般市民のかたがたが約千名その状況を見物しており、橋の上には第一組合員の青行隊の諸員が十二、三名一列横隊でピケを張つておりました。
それは「国警石川県本部では、二十九日午前六時を期して、三個小隊の武装警官隊を現地に派遣、たまたま漁中の二艘の地びき網に対し退去を勧告、漁夫らはこれを拒否して漁を強行、一時険悪な場を呈した。」こういう記事があるのであります。
真に国民のための善政が行われる所には弾圧のための武装警官隊は要らないのであります。総理は、我が党の主張する警察制度の改正に賛成し、これを採用する勇気があるか。十万の軍隊と十万の武装警官に守られなくては、枕を高くして眠れず、お気の毒ながら所労に所労を重ねることは、(拍手)吉田内閣の秕政ここに極まれりと言わざるを得ないのであります。これは国民大衆の声のみではない。
しかるに、宮城側にすでに待ち構えていた数千名の武装警官隊は、」ということになりまして、「婦人といわず、子供といわず、片つぱしから━━━━━━━━━━━━━━━━━ほしいままにしたのであります。」
「馬場先門からデモ隊が進入するとき、両側に待機していた武装警官隊は阻止も警告もせず、黙つて入れた。先頭が進入したとき(午後二時三十分)警官隊の指揮官は部下をかえりみて「ここはやりすごす。中へ入れてやつつける」と下知したのを傍にいた市民が聞いている。」こういうことが書いてある。これは非常にこれと符合している。
「デモの行進は、先頭が二重橋前で武装警官隊の襲撃をうけているとき、後尾はまだ国会議事堂の付近を歩いていた。その数は約十万。霞ケ関から日比谷公園を抜けて日比谷交叉点、馬場先門と何も知らずに、前につづいて宮城前広場へ入つて来る。しかも、それは明治神宮外苑から五隊に分れて出発したうちの一隊の中部部隊だけで、そのような数にのぼつている。
たとえば七ページの初めから三行目、「━━━━━━━━━━━━━━━━この武装警官隊、これこそ日本国内に派遣せられた━━━━でなくて何であります。」
丸山公園でも実力で私服をやつつけ、応援に駆けつけた武装警官隊と対峙して戦つた。而もこれは組織されたものではなく革命的大衆の自然発生的な戦いであつた。このことは現在の情勢の厳しさと、金属労働者を中心とする全京都の労働者の革命的高まりと成長の現われである。職制の脅迫と戦い、悪質分裂主義者をはね飛ばし、参加し、農民は封建的な縛りをふりほどき、学生、朝鮮人は敵のおどかしを粉砕して参加した力である。
第二の点は、「宮城側にすでに待ち構えていた数千名の武装警官隊は、━━━━━━━━━━━━━━━━━、大衆が呼吸困難と苦痛を訴えるすきに乗じて━━━━━━━━━━━━━━━━━」と言つておる点であります。 次に第三としては、「国家警察隊は、警察予備隊と同様、今や完全に━━━━━━━━━━━━━━━━━」と言つておられるような点であります。
しかるに、宮城側にすでに待ち構えていた数千名の武装警官隊は、——————————————————————大衆が呼吸困難と苦痛を訴えるすきに乗じて——————————————————こん棒を振りかざして、帽子一つかぶつておらない——————————————、婦人といわず、子供といわず、片つぱしから———————————————————ほしいままにしたのであります。
その物音を聞いて私は実はそれまでその事件について何ら報告を受けておりません、それは厚生部が非常に忙しくて私に報告するひまがなかつたためであります——物音を聞いて外に出てみますと、大勢の学生と相当多数の武装警官隊とが閉された正門を挾んで対峙している。
実は大学へ行つております私の長男が、たまたま数寄屋橋へ通りかかりましたところが、黒山の人だかりであつてちようど武装警官隊が三百名ばかり来て、これを取囲んだ。そうしてこん棒で頭をなぐつて顔から血を出しておる。そうして手足の不自由な人間を検束しておる。そこで民衆が非常に気の毒がつて、何ということをするのかというて、民衆が不穏の形勢を示したところが、MPがはせつけた。
進駐軍と武装警官隊と……。