2018-12-06 第197回国会 参議院 農林水産委員会 第6号
父は、漁村の次三男であり、応召前は北洋漁業に従事しており、漁業に対しての強い意欲を持っておりました。漁協ができ、組合に参加した当時の喜びを幾度となく聞かされました。あの当時の喜びと同じような、全国の漁業者に喜びが沸き上がるような漁業法の改定を願っています。 結びに、先人の英知がなし得た理念に満ちた現行漁業法を朗読します。
父は、漁村の次三男であり、応召前は北洋漁業に従事しており、漁業に対しての強い意欲を持っておりました。漁協ができ、組合に参加した当時の喜びを幾度となく聞かされました。あの当時の喜びと同じような、全国の漁業者に喜びが沸き上がるような漁業法の改定を願っています。 結びに、先人の英知がなし得た理念に満ちた現行漁業法を朗読します。
確かに、農家の次三男の住宅を建てるとか、あるいはどうしても必要なので住宅の建て増しをするというようなときに、農業委員会が許可しやすいという状況はあるかと思います。しかし、大々的な転用を、農業委員会が、あるいは農業の側が、その転用する場所を決めたり、そこへ転用需要を呼び込むことはできないわけです。転用需要というのは、基本的には外から入ってくる。その防壁になっているのが転用規制の制度だと思います。
都市化の中で、高度成長の中で、農家のそれこそ次三男の方が都会へ出てホワイトカラーになったりブルーカラーになったということを小川議員がお話ししてくださいましたけれども、今度は、今そこで疲弊をしてしまったんですから、都会でそういう仕事をしていた人も、あるいは新たに農業をしてこの地域に住もうという、家族経営をしていこうという人を新たに支援する策が要ると思うんですけれども、どうでしょうか。
農村にあっては次三男対策といって、次男坊、三男坊の働き口がない。まだ経済も復興していませんから、そういう中で、国有林でそれを受け入れるといったようなこともあって多く人も抱えた。ところが、三十年代後半から外材が入ってきて、四十年代、五十年代となっていきますと、今度は外材に押されて国産材が低迷をしてくる。
そして、一方で、この右側の方には、生きがい農園や、住宅地の近くにおきましては次三男の分家住宅を含む農村集落の整備計画を位置付けていく、これを集落全員の合意の下に作り上げていこうという考え方であります。
都市が繁栄しているというのは、地方の次三男が来て東京も大阪も確かにできている、根幹になっている。それが、おじいちゃん、おばあちゃんがまだ田舎にいるときまではよかったんです。お盆と正月に孫を見せに帰る。ところが、もう今時代が三世の時代になっておりまして、親類の人に迷惑をかけるからということで、実家の方の墓参も、正月も生まれたところで越さないというのが今の状況になっている。
要するに、昔、農家の次三男が東京に出たんです。そして町をつくったんです。経済活動の大きな原動力になったんです。その人たちが東京で活躍して、そして田舎におじいちゃん、おばあちゃんがいて、孫ができたと。かつては孫がおじいちゃん、おばあちゃんの顔を見にお盆と正月は田舎に行ったんです。
○公述人(殿所啓男君) 大変難しい話でございまして、私の年齢は戦時を経験いたしておりますが、戦後、私どものおじきあるいはいとこあたりは次三男対策として随分都会の方へ就職をしてまいりました。
当時、まだまだ次三男の方がかなり農村にはおられまして、その人たちが都会に出ていく、あるいは農村に工業が入ってきて飯が食えるということが課題であったというぐらい、農地と人との関係でいえば人の方が多かったというふうに思います。しかし、さはさりながら、農地改革の結果取得した農地を大事にして、土地の生産力を高めるという、いわば労働をたくさん投入して収量を上げるという時代であったと思います。
農家の長男が進学校へ行く、大学へ行くということ自体もうある意味では別格扱いと同時に、農家の長男は学校に行かなくていい、あるいは行っても農業高校だと、優秀な次三男は全部都会へ行けというような、やりきれないような発言というのは結構あるんですね。 そして、今、農家の長男の嫁が大変な犠牲になって農業経営というか農家自体が維持されている。
ですから、私が子供のころには、平場の農業というのは長男坊が後を継ぐ、次三男はみんな山へ行ったんです。そして、山を整えながら自分が食うだけの水田をやった。だから、祭りになりますと、山に行った苦労している次三男をみんなもてなしたものです。川下の者は川上を大切にしたものです。 そういうふうな蓄積というのが、僕は戦後の日本の工業化を成功させたと思う。
ただ、実態は前から申し上げておりますように、地元の農家の方の次三男のおうちとかあるいは地元の方々の日常上のサービス提供をするような施設、こういうものは開発許可によって開発が認められております。これがともすればスプロールの一つの要因といいますか現象を呈しているところもあるわけでございます。
もう一つのイメージをさらに申し上げますと、個別に許可される、これは本来法律違反ではなくてそういうことが許容されているわけでございますが、そういう開発がばら建ちになりまして、先ほど申し上げました例えばサービス施設とかあるいは日常生活にどうしても必要なもの、商業施設とかあるいは次三男対策で建つもの、そういうものが含まれるわけでございます。
私、すべてが問題ということでお答えしたわけではございませんが、そこそこのところについてはそれなりにスプロール問題を我々としては見過ごせない状況として全国的に起こっていることは、今御紹介のあったとおりでございますが、四十三年度から、多少くどくなりますが、本来、農家の次三男の方々の住宅とかあるいは日常生活の上での利便施設、沿道サービス施設、こういうものはやむ得ない事情によるものであるということで一律に禁止
例えば次三男対策で認められているものも、その問題そのものは本質的な問題ではないのですけれども、現象面からいきますと一部ばら建ちに近いものもあり得るかと思います。
つまり、言ってみれば、今までは兄弟が大勢いて、そして自分の家から、男でいえば次三男と同じようなものです、自分の家の親の介護から免責された女の子たちが大勢おりました。
それから、新規就農者を確保することが緊急の事態でございますので新規の就農対策、これは次三男の方はもちろんでございますが、最近の傾向を見ると農外から農業に参入しようとする方々も若手でふえておりますので、そういう者に対する援助を思い切ってしていくというようなことも今回の措置に全部含まれておるということでございます。
あの当時は六十五万人次三男が余っていたのですから。今、跡取りがないのですから。違うけれども、あの当時は農業恐慌、今はガット・ウルグアイ・ラウンドで農業破壊ですから。これを守るために、どうしても小平権一さんがやったことをもう一遍今の時代に置きかえてやるというのが私の主張なのですね。だから、このことを村山総理に、私は意見書を出しました。大河原農林大臣にも出しました。
農村地域におきましても、次三男の住宅等の非農業的土地需要に対応するために、昨年末の農政審議会におきまして、住民の合意を基礎とした農業集落地域土地利用構想という制度を新しくつくるべきじゃないかという提言がございました。私どもは、この提言を受けまして、現在その実現方に向けて検討を行っているところでございます。
そのときに私が演説しましたのは、町村合併でこんな成果を上げているということを誇らしげに申し上げましたが、同時に、今の町村の政治課題は次三男対策なんですよということを言いました。次男坊、三男坊にどうやって職を与えるかということが町村の最大の政治課題だ、そんな日本でした。それからばたばたっとよくなっていったのです。
次三男は農家が出稼ぎに行った後、旅の翼を休めるために来て、そして二、三カ月いて、あとはずっと通年出稼ぎなんです。ここには家庭生活というのはないですよ、妻との関係、子供との関係。私は岩手ですから、たくさんのことを見ています。おやじさんがどこ行ったかわからない、子供たちだけで暮らしている岩泉の子供たちもいる。行ってみたら廃屋になっている。
農繁期で長男が帰ってくると、次三男が逆に今度は通年の出稼ぎに行くという実態もあるわけです。そうした問題とか、あるいは過疎化が進行しますと学校の統廃合などということも行われる。そこには地域社会の中心となっていた学校がなくなることによって地域生活というのがかなり崩壊するという現象もあるのです、これは詳しく言えばたくさんの事例がありますけれども。
そして戦後私たちは、大陸から戻ってきた人たち、あるいは戦災で疎開していた人たちが戻ってきた集中を議論したことが住宅問題としてもありますが、その後、今おっしゃられたように、産業構造の激変に伴う集中という経験もいたしましたし、それから、農業人口が高度成長期に三分の一に激減するという中で集中構造を議論したこともありますが、このときには政治の命題としては、次三男対策というような形で、むしろ村をいかにスムーズ