1981-07-30 第94回国会 衆議院 社会労働委員会 第20号
これはひとえに学会長、名古屋の橋本義雄教授、金沢の占部教授が寛容に私の演題を採用してくだすったたまものだといまでも感謝しております。
これはひとえに学会長、名古屋の橋本義雄教授、金沢の占部教授が寛容に私の演題を採用してくだすったたまものだといまでも感謝しております。
○説明員(犬丸直君) 四十五年九月三十日、寄付行為申請時の理事就任予定者でございますが、太田元次、重冨克美、服部けい三、上田文男、飯田信治、武田満作、田坂輝敬、村岡嘉六、安倍晋太郎、橋本義雄、川端純一、志水揚武——ようぶですか、ちょっと読み方がわかりませんが、渡辺金三郎、それから村松正、平川済一郎、竹下登、以上でございます。
と申しまして、昭和三十七年十二月十日、東海災害コントロール・センター準備委員会というものをつくりまして、この準備委員会の構成は、名古屋大学医学部長の神田善吾、名古屋大学医学部附属病院長の青山進午、それから同じく分院長の橋本義雄、教授の高木健太郎、それから愛知県医師会長の服部銈三、愛知県外科医会長の棚橋貞雄、中部日本新聞社社長の与良ヱ、中部日本新聞社常務取締役の鈴木充、同じく取締役編集局長の織田稔、同編集局次長