2020-04-01 第201回国会 参議院 決算委員会 第1号
それから、総理、勉強をちょっとしておりましたら、安保闘争のとき、樺美智子さんですか、この方が、東大の学生、お亡くなりになったということでございました。その後に、総理のおじい様でございます岸信介総理が辞職をされた、いわゆる総辞職をされたということなんです。ですから、恐らく、岸総理、当時の総理は、この一人の命の大切さ、重みというものをお感じになったんじゃないのかなと思います。
それから、総理、勉強をちょっとしておりましたら、安保闘争のとき、樺美智子さんですか、この方が、東大の学生、お亡くなりになったということでございました。その後に、総理のおじい様でございます岸信介総理が辞職をされた、いわゆる総辞職をされたということなんです。ですから、恐らく、岸総理、当時の総理は、この一人の命の大切さ、重みというものをお感じになったんじゃないのかなと思います。
ただ、ちょっと事実の誤認をしておられるので訂正をさせていただきたいと思いますが、岸信介当時の総理大臣が辞職を決意したのはですね、もちろん樺美智子さんが亡くなられたというのは本当に残念なことであったと思いますが、これは、言わばアイゼンハワー大統領が日本に訪日をされる、そして、そこで言わばアメリカの大統領を日本に受け入れるという判断をしていたわけでありまして、その中で、沖縄までアイゼンハワー大統領は来ていたのでございますが
私は、六〇年安保のときに、樺美智子さんが亡くなったその現場から五十メートルぐらい離れたところでデモに参加していました。ただ、司法修習生という準公務員の身分上捕まるのはやばいということで今日に至ったわけですけれども。そのときは、やはり過激派学生と一般学生、プラス労働組合と。しかし、今回は全然様相が違っているわけです。本当に国民の階層。
そして、黒枠の写真の東大生、樺美智子さんの遺影の写真を胸に抱いた人たちがデモをしている。そのとき、幼い私は思いました。立派な大人たちのすることにも間違いがあるかもしれない、私はしっかり学んでいかなければならないということを、その場面を思い出すたびに思いながら生きてまいりました。 私は、皆様に、意見陳述というよりも、お願いをしたいと思っています。 この法案は、ストップをかけてください。
私が思うのは、治安出動というと、かつて、古い話ですが、私が昭和三十五年に防衛庁へ入ったときはちょうど安保騒動、樺美智子さんが亡くなる、そういうころでありまして、治安出動一歩手前まで赤城宗徳長官が決断されると。駒門の方ではもう戦車がエンジンを吹かしておったと、こういうような状態だったわけですね。 そういうことから考えると、治安出動というと大変大きなことだと。
遠山大臣も当時東大の学生であったわけでありますから覚えておられると思いますが、この国会議事堂の前で東大女子学生樺美智子さんが警視庁機動隊とデモ学生との攻防戦の中でその若いとうとい命を落とされました。 私は、今回のこの一連の改正になぜもっと早く着手しなかったのか、なぜ今なのかという思いを持つものであります。
国会が取り囲まれて、私も実はそのデモ隊の中の一人におったんですけれども、樺美智子さんという東大の女子学生が亡くなられた大変な騒動があった。そういうあの六〇年安保のとき。しかし、その六〇年安保のときにできたのが現在の安保条約で、これがまたその後改定されましたけれども、基本は根っこはそこなんです。
私も、樺美智子さんの命日の六・一五に生まれてと言ったら、うちの子は二週間ほど早く生まれてくれたのですね。そういう子もいるのですが、大抵、勃発的に生まれてしまうのですね。予定日なんて余り当てにならないのです。 一歳で切れたため、その直前から保育所に預けることが必要になるのですけれども、途中入所の制度を充実すべきではないかと考えているのですが、時間がないので簡潔にお答えをお願いします。
いわゆる安保といいますと、かつて多くの学生や市民を行動に駆り立て、例えば樺美智子さんのように、いわば安保闘争の中で戦死された方もいらっしゃいます。
昭和三十五年といえば、御承知のように、日米安保条約を通すか通さないかということで国会が日夜囲まれまして、そして樺美智子さんが亡くなったのが昭和三十五年。このときの一番のベストセラーが「きけわだつみのこえ」という本で、売れておりました。私もそのころは学生でありましたが、二十年から三十五年というのは、一つの時代区分で言うと、政治の時代であろうと思います。
例えば樺美智子さんもその中の一人であります。樺さんは命を失いました。皆さんのまさに姿勢に共鳴して命を失ったわけでありますが、しかし、何事もなかったように今皆さんはそこに座っておられる。私は、そういう姿勢であっては、この選挙制度を導入する前提がまさに崩れているんではないかと言わざるを得ないと考えております。
軍隊の動員はしておりませんし、騒然となったと言いながらも、あるいは樺美智子さんが亡くなったと言いながらも、それは仲間の中での事故でありまして、例えば特別軍隊がどうこうしたというのとはわけが違うわけでありますから、この点明確に、私は、事務レベルで結構でありますから、向こうに日本の歴史の事実というものを伝えていただきたい。この点、大臣よろしいでしょうか。
これは幸いにしてけがだけで済んだ、殺されないで済んだけれども、もしもこの人が樺美智子さんのように殺されたりしたということになると、なおさらこれは大きな問題になってしまう、取り返しのつかないことになってしまう。そこで、実は私も昔、安保騒動のころ機動隊に、何もしないのにけっ飛ばされたという経験があるんですよ。
福田さんのお話だと、日米安保条約は世間で誤解しているようなものでない、これも一つの主張でありますが、ときどき政府が過ちを犯そうとしたときに、野党は、国民は鼓を鳴らして、平和への道を歩め、アメリカの帝国主義の戦略の中に巻き込まれてはいけないということを叫びながら、一九六〇年の安保闘争に見られるように、いたいけな樺美智子が平和のために犠牲者となったごとく、政府に訴え通してきたから、この安保条約がいままでにおいては
そこで私は申し上げているのですが、いまのような言い方をしますと、これは亡くなった樺美智子さんのおとうさん樺俊雄さん、大正大学の哲学の先生をやっていらっしゃる。哲学は、時代の精神じゃないけれども、真理というのはその時代時代に代表されるものが真理だということになりかねない。それでは困ると思うのですよ、事、憲法となると。
最も尊敬する人物は樺美智子であるとか、あるいはまた毛沢東であるとか、ヒトラーであるとか、三島由紀夫であるとか、もちろんケネディ等はございますけれども、中曽根長官は出てないわけでありますが、吉田松陰とか出ております。 そこで私が申し上げたい点は、この中で特に四年生といいますと、すぐ明年三月卒業して一年間の見習い期間を置いて、そして昔でいえば将校になるわけです。三尉になるわけです。
樺美智子さんの場合にはちゃんと立ち会わしておるのです。
そこでもう一つ伺いたいのでございますが、昭和三十五年の日米安全保障条約の際に、多数の人たちが国会に押しかけて、樺美智子さんの不幸なできごともございましたし、多数の負傷者も出たわけでございます。これは一体集団示威運動として許可されたのか、集団行進として許可されたのか、伺っておきたいと思います。
○阪上委員 かつてのこの国会周辺を取り巻く安保のときに、ちょうど樺美智子という人が死んだ、あのときに相当なけが人が出ておりました。事件のよしあしを言っているんじゃない。そのときに私は、ここにおられる長官に、あのときに三台しか来ておらなかったので電話いたしました。さしずめ手配をしてくれて四十台の救急車が来た、もちろんちゃんと医師もこれについております。
一年前、安保反対の統一行動が国民的規模において激しい高まりを示したあの六月十五日、何の抵抗も示さない大学の教授団あるいは新劇人、これらの人たちに加えられた、身の毛のよだつような、第四機動隊、第五機動隊の行為、樺美智子さんを死に至らしめた残酷な行為、このことは、日本国民だれ一人として忘れることはないでありましょう。
なぜ私がこういうことを申し上げるかといいますと、あの樺美智子さんの死因の発表がございましたときに、やはり告訴、告発人に対するそういう人たちの協力が非常に少ないということを捜査が困難な理由にして、それだけではございませんけれども、それを一つの理由にされておったように思う。今度もまたそういうことでやられるとすると、一体警察のこのような不法な行為に対する救済というものは国民はどうして持てるのか。