2014-04-02 第186回国会 衆議院 内閣委員会 第9号
百人を超える明治の方たちが明治四年に横浜港から出て、サンフランシスコ、大陸横断鉄道、ニューヨークとワシントン、大西洋を渡って、スウェーデンからイタリアまで、各地域に散って、その地域の文化、地域のあるいは医療だったり、統治機構だったり、あるいは科学技術、全て見聞をして、帰り、スエズ運河を抜けて、植民地であったシンガポールあるいはサイゴン、四つの植民地を見て日本に帰国するわけですよ。
百人を超える明治の方たちが明治四年に横浜港から出て、サンフランシスコ、大陸横断鉄道、ニューヨークとワシントン、大西洋を渡って、スウェーデンからイタリアまで、各地域に散って、その地域の文化、地域のあるいは医療だったり、統治機構だったり、あるいは科学技術、全て見聞をして、帰り、スエズ運河を抜けて、植民地であったシンガポールあるいはサイゴン、四つの植民地を見て日本に帰国するわけですよ。
○木原(稔)委員 私は昨年、トルコ共和国を訪問いたしまして、そのときに視察をしたところが一カ所ありまして、それはボスポラス海峡の横断鉄道建設といって、今アジア大陸とヨーロッパ大陸に分断されているトルコの、海底トンネルを掘って地下鉄を通そう、そのような工事だったわけであります。 トルコはそういった技術がないので、日本にそのプロジェクトをゆだねた。
昔はアメリカというのは大陸横断鉄道を敷いて開発していったんですが、二十世紀になってくると、やはり道路が大事だと。 さらに申し上げれば、ヒトラーがアウトバーンをつくった。公共事業としてドイツの不況対策にもなった。そしてまた、しっかりとした国土をつくってきた。そういった意味で、道というものは国家にとって極めて大事だということがあります。
今回、もう一つ上がっているプロジェクトの中に北九州の洞海湾横断鉄道というのがありますが、これなんかと、末吉市長さんとよく話をするんですけれども、これを両方から頑張って延ばしてきてドッキングさせようじゃないか、こういう夢を語っているわけでございます。
私は、アメリカにおったときに、例えば、大陸横断鉄道を使って西海岸まで旅行をして、方々を回って、また飛行機で帰ってくるということを計画いたしまして、向こうのある社団法人のような観光サービスのところに出かけていって申し込むと、すべて鉄道は、ではこれで幾らだ、飛行機は幾つかあって、安い飛行機はあるけれどもどっちにしますかということで、そこで選ぶともうそれで決まる、そして宿泊は、こういうホテルがありますよ、
つまり、ちょっと話が長くなって恐縮でありますが、第一次観光革命というのは、一八六〇年代にスエズ運河が開通をしたり、そしてまたアメリカ大陸の横断鉄道ができたり、そういう時代でありまして、国際化、欧州におけるエリート層の観光が活発になった。それから五十年後の一九一つ年代には、アメリカにおきまして、タイタニック号のあの悲惨な事件もありましたが、アメリカの方々の中産階級が世界に出ていった。
○猪木寛至君 それと、きのうの新聞ですが、この前もこの委員会で質問させてもらったアジア横断鉄道合意ということで、アシハバードというところでこの間会議が行われたようですが、やはり中央アジアが一つに結ばれるというのは経済圏として大変大きなことじゃないかなと思うのです。
これは全体の意見が一致しておるのではないかと思いますけれども、私が持っておる四、五年前の運輸省に出した資料によりますと、社会党の意見も共産党の意見も、あるいは福岡県交通対策地方交通委員会の提言も、あるいは福岡県の産炭地振興協議会の提言も、復興共闘とか暮らしを守る、それぞれの団体がしておりますけれども、筑豊に横断鉄道をつくりなさいというのが全部共通しておるわけです。
この上山田線の廃止は、さきに述べました発展計画における横断鉄道構想の消滅を意味し、同計画の推進に支障を及ぼすことになります。鉄路を残す住民運動につきましては、ノスタルジアから発しているという考え方もありますが、二本の線路で都市につながっているという過疎の論理には切実な願いがこもっております。漆生線につきましても、上山田線と同様の影響を与えるものでございます。
これについては福岡県知事が、七百名以上の高校生にとってこれが不可欠の通学の手段になっているというような点も指摘をして、むしろ筑豊の横断鉄道の一部として有効活用をすべきだというような意見も出してきております。
現在ある狭軌のものや古臭いものを直したい、あるいは新しく横断鉄道をつくりたいというような構想を私におっしゃいました。すでにわが国におきましては、JICAがこれに協力して一部調査をやっておるところもあるのであります。したがいまして、この調査につきましてはJICAを通じまして御協力申し上げましょう、そういう答弁をしてきた次第でございます。
また、昭和四十年には政府派遣のアフリカ横断鉄道計画調査団長としてザイール国に赴き、日本円借款による鉄道建設計画に着手いたしました。現在ザイール川に世界最大の規模の橋梁建設が進み、国鉄技術者を初めとする日本人の手によって昭和五十八年には完成が見込まれております。これもアフリカに残されたあなたの大きな足跡となるでしょう。
そうした中で、たとえば、私筑豊なんですけれども、筑豊横断鉄道のようなビルドにかかわる論議をこの協議会の中でするのでぜひ参加してほしいということが言われておりますけれども、このようなことがあり得るのかどうか、この点が一点です。 それから二点目は、見切り発車についていろいろ意見があるようでありますけれども、見切り発車はその後検討したようでありますけれども、するのかしないのか。
この東京湾の横断道路ができたときに、東京湾側と太平洋側を結ぶ房総半島の横断鉄道というものが何よりも必要だということが地元でも強く要望されているわけでございます。確かに木原線は国鉄の基準から言いますれば、整理しなければならない赤字路線であることは私は承知しております。
までに六万四千人の人を定員削減いたしまして、何とか収支を合わせるように持っていく、残りの九千キロの中で、いかに努力をいたしましても貨客の減少によって、過疎化によってどうしても国鉄としての運営ができないというところをバス転換等を図ろうと、こういうことになるわけでありますが、いずれ政令等によって御審議をお願いするということになっているわけでございますが、いま先生御指摘のように、高千穂線のような場合は横断鉄道
お互い人間だから、中川さんが、いや、わしのところも、横断鉄道のときにはアイゼンベルグなんというのがいてフランスに持っていかれて困っているんだ、お隣の韓国じゃないですか、われわれも一生懸命国のためにがんばってやっているんだから何とかしてくれませんかとかなんとか言うのは支店長の務めでしょう。それでなければ商売ができないでしょう。中川君、そうか、そんなに君が一生懸命ならおれが教える、それは人情でしょう。
横断鉄道に関しましては何度か参りました。
○中川参考人 最小限言えることということですが、私は本当に良心に誓って本当のことを申し上げておるので、横断鉄道につきましては私が責任を持って現地の責任者としてやりましたけれども、ソウル地下鉄につきましては、私がおるときにはソウルに地下鉄をつくるそうだといううわさを聞いた程度でございまして、私が離れてから九カ月たって初めて具体的な動きになっておりますので、私は全然存じません。
これが実現すれば福岡都市圏と筑豊内陸部、日豊線行橋及び苅田港それから周防灘、これを最短距離に結ぶ線、すなわち筑豊横断鉄道ができ上がるわけでございます。産炭実計にもうたっております筑豊内陸部の振興に大きな役割りを果たすものでございます。
何か韓国の横断鉄道の電力化の問題で大変苦労されて、相手はフランスの企業であって、大変努力されたが最終的にはフランスに負けて、その事業の入札は落とせなかった。勝った話はどこでも聞きますけれども、韓国で負けたという話は珍しいものでございますから、しかも大変苦労されたというので、これは今後の日本と韓国との投資の状況等のあり方についてわかりますので、ひとつこの点を詳しくお聞かせをいただきたい。
あのアメリカ横断鉄道ができたときにアメリカから穀物が安く入ってきた。四割ぐらいでもって入る。小麦をつくったのじゃどうしようもない。フランダースの一帯と、あのオランダなりデンマークなりイギリスにおいて、百姓なんかやっているのはばかじゃなきゃやっていけないという時代があって、結局は農村におけるまじめな農民は、日本のこの二十年間のあり方と同じように都市へ都市へと流れ出してきてしまった。
○太田委員 かつてアメリカは、自動車の時代がやがて来るであろうというて、あの豪華けんらんであった大陸横断鉄道も過去の遺物としつつあった。ところが、日本に新幹線というのができて、それで初めて世界の陸上交通界は新しい目を開いた。鉄道は過去のものではない、こういうことに相なって、世界の知識ある先覚者が日本の国の新幹線を視察に来る。おそらく国鉄総裁は鼻が高いだろうと私は思うのです。