2021-05-21 第204回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号
普天間の返還合意をしたときの橋本総理とか、当時の梶山静六さんとか、物すごく一生懸命やってくれていたというのが、私たちの、私の印象であります。ところが、今どうかというと、例えば、普天間のオスプレイの飛行訓練の一部を佐賀県の佐賀空港に移転しようというふうに、菅総理、当時、官房長官として一生懸命試みたんですよ。ところが、それもみんな反対した。それで実現しなかったということじゃないですか。
普天間の返還合意をしたときの橋本総理とか、当時の梶山静六さんとか、物すごく一生懸命やってくれていたというのが、私たちの、私の印象であります。ところが、今どうかというと、例えば、普天間のオスプレイの飛行訓練の一部を佐賀県の佐賀空港に移転しようというふうに、菅総理、当時、官房長官として一生懸命試みたんですよ。ところが、それもみんな反対した。それで実現しなかったということじゃないですか。
僣越ですけれども、お父様の梶山静六元官房長官ですね、沖縄問題担当されているときには、現地に足を何度も運んで、膝詰めで、もう長時間にわたって対話をしたというエピソードを新聞で認識しています。 繰り返しになりますけれども、二年しかないということで、これまでも努力はしてきたけれども、なかなか福島県民の理解、協力は得られていない。
今の菅総理の政治の師匠は大臣のお父様とも言われていて、その梶山静六先生の言葉の中に、常に志は高く、仕事は活発に、されどふだんは質素にという言葉があります。 原発というのは、今の利益のためだけであって、不幸にして、事故がなくても、この使用済核燃料は、数万年にわたって、人類の歴史を超えるぐらいまで負担を残すものであって、利益の先食いとも言えます。責任のたらい回しです。
菅総理は、施政方針演説の中でも、師と仰ぐ梶山静六氏の教えを引きながら、国民の食いぶちをつくるのが自身の仕事であるとの信条を語られました。今後十年で七十九万人不足すると見込まれるデジタル人材の輩出に必要なのは、集中的な教育投資にほかなりません。新しい時代の雇用創出とデジタル人材育成に向けた方針について、菅総理の答弁を求めます。
梶山静六さんが、国民に負担をお願いする政策も必要になる、必要性を国民に説明し、理解してもらわなければならないとおっしゃった。 私は、実は、梶山静六通産大臣のときに、大蔵省主税局で課長補佐をしておりました。当時、輸入税制というのを入れたんです。輸出促進じゃなくて、輸入促進。つくったんですけれども、終わったら、大臣が私と課長と局長を呼んでくれて、慰労会をしてくれたんですよ。
私は、四十七歳で初めて衆議院議員に当選したとき、かねてより御指導いただいていた当時の梶山静六内閣官房長官から二つのことを言われ、以来、それを私の信条としてきました。 一つは、今後は右肩上がりの高度経済成長時代と違って、少子高齢化と人口減少が進み、経済はデフレになる。おまえはそういう大変な時代に政治家になった。その中で国民に負担をお願いする政策も必要になる。
私は、四十七歳で初めて衆議院議員に当選をしたとき、かねてより御指導いただいていた当時の梶山静六内閣官房長官から二つのことを言われ、以来、それを私の信条としてきました。 一つは、今後は、右肩上がりの高度経済成長時代と違って、少子高齢化と人口減少が進み、経済はデフレとなる。お前はそういう大変な時代に政治家になった。その中で国民に負担をお願いする政策も必要になる。
政治家としても、梶山静六さんの代からずっと続いてきた梶山王国の中でもこの問題は一番大臣が苦しい選択を迫られることはもう目に見えて分かるわけですが、どうかそういったことを、まず梶山大臣のお人柄ですから、地元のことを最優先、国民のことを最優先にしてこれまでも優しい答弁をしてきたのはよく分かっていますので、再度この問題に対する大臣の心構えというか、それをお伺いしたいと思います。
私は、梶山静六当時官房長官でした、先生や、後藤田正晴先生や野中広務先生がいらっしゃったら、総理、この任命拒否、人事はおやめになった方がいいととめていたんじゃないかと思いますよ。それが保守の懐の深さだったんじゃないですか。 学術会議の、河野大臣が行革の対象にする、十億円でしょう、予算。私、少ないなという印象を受けたんですよ、見たとき。アベノマスクに二百六十億円使ったんでしょう。
これでもう終わりますけれども、ぜひとも、梶山静六先生を師と仰いでおられる菅総理、また、橋本龍太郎総理のもとで初当選をされた菅総理として、残念ながら、もう本当にお二人は亡くなられてしまいましたけれども、ゆめゆめ草葉の陰で泣いているということにならないような政権運営をぜひお願いいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。 どうもありがとうございました。
これはもう梶山静六先生も、立派だ、よくやったというふうにおっしゃられると思いますよ。 先ほど、審査の体制については千六百人から二千九百人にふやした、こうおっしゃいました。それはそういうふうにできるように契約書に書いてあるんだ、こう御答弁されましたけれども、契約書のどこに書いてありますか。
だとしたら、契約が適切だなどと言い張らずに、この団体の設立にさかのぼって、大臣としてもう一回ちゃんと精査するよということをお述べになられるのが、私は梶山静六の息子として恥じない答弁なんじゃないかというふうに思うんですよ。国士だったんですから。大臣も国士にならなきゃいけないわけですから。いかがでしょうか。
でも、官房長官、ちょっと若げの至りで申し上げさせていただきたいんですが、御党の後藤田正晴先生とか、野中広務先生とか、梶山静六先生とか、まさに異彩を放った官房長官、歴代いらっしゃいますね。政権運営においても巧みだったと思う。しかし、もうちょっと、何というんですか、どこかに、政権の都合と社会の規範との間でもっともがき苦しんでいる先輩方だったんじゃないですか。
○菅(直)委員 梶山大臣とは直接こういう形での議論は初めてですが、自社さ政権の当時、橋本内閣で私が初めて厚生大臣を拝命しまして、そのときの官房長官が梶山静六先生でありました。大変お世話になったということで、まずは、そのことの思い出を少し申し上げさせていただきました。
これは東海村に当時本社があって、現ひたちなか市に移転している、まさに機構のファミリー企業、現E&Eといいますけれども、こちらからも五十万円寄附を受け取っていらっしゃいますが、E&Eと常陽産業、現アセンドとE&Eは、これは原子力研究開発機構の研究施設の運転であったり保守であったりメンテナンスなどを行っている会社と承知しておりますが、まずこの二社目の原子力技術、現E&Eと、これは、先代の梶山静六先生のころからこの
いろんな災害というのは忘れた頃にやってくるといいますけれども、特に私の地元の小貝川と利根川のところが、ちょうど四十年前に小貝川の決壊がありまして、当時、私の地元の衆議院の先生が中山利生先生という、これは梶山先生のお父さんと同じ田中角栄さんの門下生で、当選同期でありまして、梶山静六先生の当選同期には小沢一郎さん、それから渡部恒三先生、奥田敬和さん、そうそうたるメンバーがいましてですね。
当時の橋本総理は、重鎮の梶山静六官房長官がおられて、梶山さんも本当に沖縄への思いが強かったけれども、決して官房長官任せにしなかった。これは、トップリーダー同士がやらなきゃだめな話なんですよ、軍事基地だ、抑止力だ、安全保障だという問題は。
今日は、質問に先立ちまして、実は私は千葉県生まれなんですけど、三十年前でございますけれども、初めて政治家を志したときに、私の近所に住んでおりました周郷正さんという方がいまして、その方から、どうせ政治家を目指すんだったらこんな人になれと言って挙げられた名前が実は梶山静六さんという政治家でございまして、なぜ八千代の私の家の近所のおやじが梶山さんを尊敬していたかといいますと、陸軍士官学校、五十九期の陸軍航空士官学校
このときも、不測の事態に対応して、当時、今は亡き梶山静六先生、地元のいろいろな御要望を聞いて、予備費を使うように働きかけたけれども、結局使えなかった。こういう予見しがたい事態でも使えない。
私自身、政治家のことを書かれたもので一番感銘を受けたのは、お父様のことを田崎史郎さんが二〇〇三年か四年ぐらいに書かれた本を、私自身が当選した一年後、二年後ぐらいだったんですけれども読ませていただいて、本当に梶山静六先生の物事の考え方ということに非常に感銘を受けておりました。大臣からもさまざまな御示唆をいただきながら、質疑をさせていただきたいというふうに思っております。