1980-10-30 第93回国会 衆議院 内閣委員会 第6号
それから枢軸側でございますが、これの合計数、死者及び行方不明者が六百七十万、負傷者が八百二十数万。連合国、枢軸国両方合わせまして、死者及び行方不明者が約一千七百万、それから負傷者が両方合わせまして約二千七百万。以上のような数字でございます。
それから枢軸側でございますが、これの合計数、死者及び行方不明者が六百七十万、負傷者が八百二十数万。連合国、枢軸国両方合わせまして、死者及び行方不明者が約一千七百万、それから負傷者が両方合わせまして約二千七百万。以上のような数字でございます。
○麻生委員 努力をしておられるということなので、それはそれなりに結構だと思いますが、戦前は先進工業国との外交というものを非常に重要視しておられましたし、ドイツ、イタリーなどの枢軸側とか、また対米、対英外交というものに非常に主力を置かれておったのはよくわかっております。
あれほど私の友人でもあり聡明であった平沢和重君なんかも、やはり白鳥一派のミリタントな強硬論者として枢軸側に加担し、戦後は今度は占領軍の方の便宜を図っており、最終にはソ連に迎合したような領土問題を「フォーリンアフェアーズ」に書いてむなしく死んでいきましたが、才余って一つの文明史観と哲学を持たず、民族の憂いを持たない一つの思いつき政治の中では、日本が世界から孤立していくような、誤解を受けるような不信感が
不可侵条約を中立条約に変更いたしましたのは、日ソ間の政治的取りきめによりまして、日本の欧州戦争不介入の方針が変更し、枢軸側に加担するような印象を与えることは、対米英関係に支障を来たすかもしれぬという考慮、及びこの条約の主たるねらいが元来ソ連の蒋介石援助の行為、援蒋行為を中止させることを根本目的としたものであったからであります。
第二次世界大戦後われわれが一般に軍国主義という言葉を品にする場合には、結局第二次世界大戦の際の枢軸側をさしておる。日独伊これを軍国主義という言葉で表現しておったと思う。そこで無責任な軍国主義がいまだ世界から駆逐されておらないということは、こういう枢軸諸国のいわゆる残存勢力をさして言ったのだろうか、それとも終戦後新たに興ってきたそれとは別なものをさしておるのだろうか、当時の情勢はどうなんだろうか。
だから一つごまかしな上に御説明を願いたいわけですが、無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないということは、結局第二次世界大戦を起す原因を作った日独伊枢軸側・これは連合国軍は軍国主義国といって烙印を押しておった。
朝鮮、イタリアの例をお引きになりましたが、朝鮮はアメリカと戦争して負けて、占領されたのでないので、日米間の関係と多少違いますし、またイタリアも初めは枢軸側でありましたが、後寝返りまして、しまいには連合国側の共同交戦国となつてしまいましたので、これも多少日米間の占領、被占領の関係においては違うように存ずるのであります。