2015-06-05 第189回国会 衆議院 経済産業委員会 第20号
あれは、松代の農家が偶然発見して、そして中野市でやり、今も中野市、中野市は私の地元中の地元なんですね、そこでいっぱいやっているんです。 飯山市の支持者訪問に、冬、雪になる前に行こうと。あそこに家があるじゃないですか。いや、もう潰れて廃屋になっていますよと秘書が言うんですよ。煙が出てるんです。歩いて行ってください、五十メートルぐらいですが、車が動けなくなるといけないからと。
あれは、松代の農家が偶然発見して、そして中野市でやり、今も中野市、中野市は私の地元中の地元なんですね、そこでいっぱいやっているんです。 飯山市の支持者訪問に、冬、雪になる前に行こうと。あそこに家があるじゃないですか。いや、もう潰れて廃屋になっていますよと秘書が言うんですよ。煙が出てるんです。歩いて行ってください、五十メートルぐらいですが、車が動けなくなるといけないからと。
そこの地図のところにちょっとありますけれども、下の方に松代群発地震と書いてあります。これは、一九六五年から五年間、私が高校時代です。木造の校舎がいつもゆらゆら揺れていました。僕は余り乗り物に酔うとかいうのはないんですけれども、相当の皆さんが船酔い現象を起こしました。吐きっぽくなる。そのぐらい頻繁に地震が起きているんです。
これは高柳だけじゃなくて、ほかの、松代、松之山とかあの辺を見ても、集落がなくなったところを見ていくと、完全に人が住まなくなっても、しばらく農地があるので農地が生きるんですね。だから、そういう形になっていくんだろうと。 高柳の中で言いますと、黒姫山という八百数十メーターの山がありますが、そこに近いところが一番経営面積が大きいんですよ。
それから、せっかく資料をつくってきましたので、一番最初の写真ですが、私がビニールハウスを見学して、これは長野市の松代というところで拝見したものですが、連続して棟がつながっているようなビニールハウスはこういう状況で、全て全滅してしまった。かなり太いパイプを使っていたようなんですが、このようにひしゃげて、内部は、このようにビニール等は落ち込んでしまった。 この中にいろいろな苗があるわけですね。
今から四十数年前、私が学生時代に松代群発地震というのがありまして、橋の下にずっといまして、その群発地震の調査を学生時代にしていた一人でございます。山がぱっと光って、それから山がどおんと鳴って、それで地震計がささささと動くという、発光現象とかそういうことについて。 長野県北部の地震については、よく注視していかなくてはいけないと認識をしておるところです。
総理は、我が長野県松代藩に伝わる「日暮硯」を御存じでしょうか。藩政改革に大なたを振るった恩田木工の物語であります。 恩田は、主君から藩政改革の命を受け、すぐさま、妻に離縁、子供を勘当、家来を首に、親族と絶縁を言い渡しました。改革のため全てのしがらみを断ち切り、飯と汁のみを食し、自らの全てを律して、藩財政の再建、綱紀粛正に取り組んだのであります。
続きまして、吉田博美議員を始め、多くの傑出した人物を輩出をした長野県松代藩の藩政改革を行った恩田木工についてお尋ねがございました。 いかなる世でも、国家的な危機に立ち向かうには、恩田木工のような危機突破に向けた強い志と我が身を顧みず一身をささげる覚悟が不可欠であります。そうした決然としたリーダーの姿が、官を動かし、民を動かし、ひいては国を動かすものと確信をしております。
江戸時代に、信州松代藩の家老の恩田杢さんという方が藩政改革の事績を筆録した書、「日暮硯」というのがあります。 さて、この上、皆々が不得心なれば、手前が役儀も勤まらず候間、切腹いたすよりほかはなく候。したがって、手間に首尾よく役儀を勤めさせてくれるも、また切腹させるも、皆々様の了見次第に候間、いかがいたし候や、皆々の所存を聞きたく候。
長野県の松代にある気象庁の精密地震観測室で、この地震の十分後、マグニチュード九・〇という観測データを記録しながら本庁に報告をしなかった、こういうふうに書かれています。 皆さん、思い出していただきたいんですけれども、気象庁発表のマグニチュードは当初七・九で、二日後までそれは修正されなかったんです。二日後になって九・〇ということになった、このように記憶をしています。
それを考えると、やっぱりファイアウオールというか、かなり何百キロという単位で離れたところにそのバックアップの機能をつくっておかないといけないんじゃないかと思うし、終戦間際に松代に大本営つくりかけたという話ありますけれども、まあ松代の方に表現が良くなかったら申し訳ないんですけれども、ああいうところにつくろうとしても、じゃ、さっきの偉い方、偉くない方って、偉くない方たちどうするんだといったら、農家に分宿
ただ、仕事の方はなかなか工場が、先生御存じのあの松代の善屋そばというのも来ることにしたんですけれども、なかなか簡単には工場は来ないので、働くところがないんですよね。 そんなところですけれども。申し訳ありません。
それから、長野県の松代市、ここでは一九七〇年の一月から二月にかけてこの実験が行われています。最後に、ドイツのKTB、これはプロジェクト名でありますが、九四年、行われております。ここを御覧いただければ分かりますように、いずれも一定の量の水を一定の深度に注入した場合、その後四、五日あるいは六、七日、さらにはその後すぐに地震が発生していると。
同じような例は日本でも報告されておりまして、昭和四十年の八月から松代市で約五年間にわたって群発地震が起きました。実はこのときには、調査研究という目的で、ちょうどこの地震が起きた期間に水を地中に注入していたわけでございます。もちろんこの地震との因果関係は当時は知られておりません。
たまたまこれがお二人とも長野県の出身でありますし、またここの登場人物が、「劔岳」の方は柴崎芳太郎さんという方、諏訪の出身でありまして、また井出さんが書かれた「アトラス伝説」の川上冬崖は御存じのように画家としては大変有名な方でありますが、これがどうも長野の私のすぐ近くの松代藩の出であるという。
これは、環境省にこういう資料と言ったら、環境省にはない、松代温泉が高いと聞いておりますという答えしか返ってこなかったんです。だけれども、こんなのは、私が温泉協会の資料を慌ててホームページや何かで調べたんです。調べると出てくるんですよ。そういうのすら把握していない。見てください。一リットル当たり十ミリグラムなんて言ったって、何百倍ですか。
例えば、数え上げたら切りがありませんが、戦争中、大本営を掘った、松代に大本営を移すというんで、その穴は今も残っておりますが、朝鮮人を大動員して掘ったわけです。今でも韓国の学生が修学旅行に来てどこに行くかというと、松代へ行く。松代へ行って自分たちの先輩がやったことを見ている。その近くの日本の高校生は松代の歴史を知らない。そういう事実があります。
それで、そのときの発生の時刻は十月九日十時三十五分ごろということは、長野市の松代というところの周辺にある観測機で約、距離から推定しまして二分到達で、三十七分ごろ観測しております。それで二分を引きますと三十五分ごろに起こったんではないかということがまず時間です。 それから、震源につきましては、北緯四十一度二分、東経百二十九度二分というところで起こった。
具体的に、もう既に取り組んでおりますが、昨年の十月から常磐自動車道では守谷サービスエリア、それから上信越自動車道では松代パーキングエリアにおきまして、生産者から直接仕入れた新鮮な野菜とか果物を提供するというようなことで、地元の自治体あるいは生産者の方と協力して直売所を運営しております。
○政府参考人(長坂昂一君) 気象庁では、先ほど申し上げました太平洋津波警報センターからの情報に加えまして、長野県松代にございます気象庁の精密地震観測施設、あるいは米国地質調査所が世界に展開しています地震観測網から取得した地震観測データを総合的に判断をいたしまして、二十六日午前十時四十四分に、震源の位置、震源の深さ、マグニチュード、それから日本にはこの地震による津波の影響はないという旨の情報を報道機関
○政府参考人(長坂昂一君) 先ほど申し上げましたように、ホノルルにございます太平洋津波警報センターからの情報に加えまして、松代にございます精密地震観測施設あるいは米国地質所での全球的な地震観測データ等を入手して解析を、作業を当日も当たったわけでございますが、地震の発生後おおむね三十分前後で当該地震に関する地震についての情報を発表できる状況になったというふうに考えております。
昭和四十一年の松代群発地震、個人住宅の補強の材料を市町村が供給していた。これだって個人に対する補助金、個人の財産に補助する、市町村がやっていた。でも、これも、ほっておくと、個人の住宅が破壊されたらいずれ火災が起こるかもしれない、公共に影響を及ぼす、そういうことで特例として認めてきた。
私は、学生時代、ちょうど松代群発地震とかあるいは新潟の地震が入学した直後にありまして、耐震工学を専攻して、非線形振動論というのが私の修士論文であったりしたんですが、九五年の阪神大震災のときに、地震計もなければ何もない、もう大変な状況で、昔の仲間が非常に悔しい思いをしたということがありまして、観測体制ということを本当に強化してもらいたいということをずっと言い続けてきたりしました。