1970-05-12 第63回国会 参議院 建設委員会 第18号
一番の最高の学者といわれている、技術者といわれている、松井博士でしたか、聞かれればそうお答えする以外に方法がございません、私は自分が技術家としてどれを先にするかと言われたら、そうお答えをする以外に道はございませんという、これは非常に良心のある答弁、だったそうであります。そこで、三つの橋を一緒にやるんだというこの政治の貧困というか、いくじなしというか、総理はじめこれに対しては口をつぐんでいる。
一番の最高の学者といわれている、技術者といわれている、松井博士でしたか、聞かれればそうお答えする以外に方法がございません、私は自分が技術家としてどれを先にするかと言われたら、そうお答えをする以外に道はございませんという、これは非常に良心のある答弁、だったそうであります。そこで、三つの橋を一緒にやるんだというこの政治の貧困というか、いくじなしというか、総理はじめこれに対しては口をつぐんでいる。
この松井名刺につきましては、当時検事は、松井博士の名刺が約百枚、そのうち発見されたのが約七十枚と言われておりますけれども、この平沢逮捕の唯一の物的証拠でございました松井博士の名刺は、これはちょうど平沢が皇太子殿下に絵をかいて差し上げたい、こう考えて彼は北海道に行く途中、函館に行く途中、連絡船の甲板の上で会ったわけです。
この松井名刺につきましては、当時検事は、松井博士の名刺が約百枚、そのうち発見されたのが約七十枚と言われておりますけれども、この平沢逮捕の唯一の物的証拠でございました松井博士の名刺は、これはちょうど平沢が皇太子殿下に絵をかいて差し上げたい、こう考えて彼は北海道に行く途中、函館に行く途中、連絡船の甲板の上で会ったわけです。
○小谷参考人 私今その名簿を実は持ってきておりませんので、記憶にある分だけを申し上げますと、公衆衛生院の松井博士でございます。それから国立衛生試験所の川城博士、それから予防衛生研究所の遠山博士、それから私も入っております。また厚生省の方も、ときどき監督の意味でその委員会には御参加を願っておるというようなことでございます。
たとえば帝銀事件の場合におきまして、船中で被告平澤が松井博士に面接いたしまして名刺を交換した。この名刺の筋から犯人を割り出したようなのが具体的な事例であります。次に犯人並びに被害者の足取りであります。犯罪の場所には必ず犯人の足があるのです。その犯人が現場に来るまでと、犯行後逃走したその径路等を研究して、犯人が何人であるかということにたどりつく、いわゆる足取り搜査であります。
松井博士はこの名刺を昨年の三月に百枚作りまして、本年の正月ごろまでに、即ち帝銀事件のあの犯行が行われるまでに主として東北、北海道方面の関係者にこれをばら撤いておるのであります。現在同博士の手許に七枚殘つておることが判明いたしております。そこで行使せられた名刺の数は九十三枚でありまして、その九十三枚の一枚を犯人がいずれかで手に入れてこれを行使して荏原安田銀行で使つたものと推定されるのであります。
而も犯人が使用した名刺も、松井博士の眞正の名刺であります。松井博士が實際使つてあつた名刺であることが、科學試験の結果立證されたのであります。そこでこの名刺につき徹低的に穿撃が行われた結果、百枚印刷しまして、大部分を使つた點、及びその使用先等が分り、苦心を重ねて現在これを六十六枚發見しております。
たとえば、仙台に在住いたしております松井博士の名刺の関係等は、捜査の筋といたしましては、最も重要な筋でありまして、現在これが百枚の名刺の行く先につきましては、大体八十枚程度まではつきりいたしておりまして、その後の名刺についてさらに追究をいたしておるのでありますが、はつきりいたしました点につきましては、その名刺を受けた者について、さらに各府縣にわたつて捜査をいたしております。