1984-02-09 第101回国会 衆議院 本会議 第5号
先生は、当初中野正剛氏の主唱する東方会に所属をしておられましたが、日中戦争をめぐる見解と方策の違いからそれとたもとを分から、新たに東亜連盟協会を設立され、その運動を展開されたのであります。当時の資料によりますと、この協会の綱領、スローガンには、万邦協和による世界絶対平和の確立が究極の目標とあり、アジア各国の自主独立と国防の共同、経済の一体化などがうたわれております。
先生は、当初中野正剛氏の主唱する東方会に所属をしておられましたが、日中戦争をめぐる見解と方策の違いからそれとたもとを分から、新たに東亜連盟協会を設立され、その運動を展開されたのであります。当時の資料によりますと、この協会の綱領、スローガンには、万邦協和による世界絶対平和の確立が究極の目標とあり、アジア各国の自主独立と国防の共同、経済の一体化などがうたわれております。
先生は、昭和十二年四月、第二十回衆議院議員総選挙が行なわれるや、東方会に属して岐阜県第二区より出馬し、みごと当選の栄をかち得られました。(拍手)自来、中野正剛氏と師弟の交わりを越えたかたい同志的な契りを結んで行動をともにし、当時の困難な事情のもとにあって、身命を賭して奮闘されました。
昭和八年同校卒業後、国民同盟政策研究倶楽部員となり、政策の調査立案に従事されたのでありますが、昭和十五年には東方会に入り、組織宣伝部員として党勢の拡張に活躍されたのであります。昭和十七年には武蔵野書房を創立し、その経営に当られ、また、みずからも筆をとって、「濠洲発達史」、「北越草莽維新史」、「雷撃」等の書を著わされたのであります。
まだ新聞記者をやめまして二週間にもなりませんが、記者生活中、政治経歴と申しますと、中野正剛氏や、この間物故されました緒方竹虎氏などと一結に東方会におりました。そうして政友会——久原房之助氏が総裁時代、政友会の院外団におりました。政治関係では中助松氏の私設秘書、そういう次第であります。
私はちょうど稻村君が東方会に所属しておる時分に、木を貸してくれたので、読みました。その第七巻に、チャーチルが軍需大臣になったときの模様が書いてある。自分が軍需大臣に任命されたけれども、一人のスタッフもなく、大きな、いすがたくさんある部屋を渡された。
○証人(丹羽五郎君) 主だつた人と言いますと、まあ私も元二月事件にちよつと連累したこともありますし、五・一五関係、血盟團関係、その他青年党、東方会、皆終戰までは附合つておりました。