1952-05-07 第13回国会 参議院 地方行政委員会 第28号
次に河原町通りの衝突でございますが、河原町通り三條、四條間は市内でも最も目抜きの繁華街でございますが、午後二時半頃自労に引続きまする学生隊がジグザグ行進を始め三條から四條に至る約四百メーターは一時交通が全く杜絶する状態になりましたので、警察隊は予定のコースに戻すために道路の東側に向わせようといたしましたところ、デモ隊の一団は交通整理の警察官に投石をいたし、警察隊にプラカード、棒切れを振りかざして攻撃
次に河原町通りの衝突でございますが、河原町通り三條、四條間は市内でも最も目抜きの繁華街でございますが、午後二時半頃自労に引続きまする学生隊がジグザグ行進を始め三條から四條に至る約四百メーターは一時交通が全く杜絶する状態になりましたので、警察隊は予定のコースに戻すために道路の東側に向わせようといたしましたところ、デモ隊の一団は交通整理の警察官に投石をいたし、警察隊にプラカード、棒切れを振りかざして攻撃
翌十日午前五時半、捜査のため羽田を出発しました日本航空会社の捜索機は、午前八時五十分に、大島三原山の噴火口東側約一キロメートル、標高約二千フイートの地点に遭難機の残骸を発見いたしましたので、急速救助のため、国警大島地区署の捜索隊、消防縁などの現地派遣、または米空軍よりの飛行機の派遣、海上保安庁の救助艇の派遣等、でき得る限りの手配を講じたのであります。
翌十日午前五時半捜査のために羽田を出発しました日本航空会社の捜索機は、午前八時五十分大島三原山の噴火口の東側約一キロメートルの地点、標高二千フイートの地点に遭難機の残骸を発見いたしましたので、急速救助のために、国警大島地区署の捜索隊、又消防隊の現地派遣、米国空軍による航空機の派遣、海上保安庁の救助艇の派遣など、でき得る限りの手配を講じたのであります。
国道は東側からずつと鉄道と交叉しない線で大体行うべきものである。だから国道の将来を考えたときに、国道は三十メートル、四十メートルにすべしという御意見は、私も同感です。その点については一つも意見が食い違つておらぬ。私の前のお話を上林山君は聞いておらぬから、そう言われるのです。
繰返して申上げますると、現在日本の金山は北海道から九州にかけましてあり、伊豆は一つの金山地区となつて、日本では優秀な所でございまするが、主として大きな金山は西海岸に近いほう、土肥、持越、清越、湯ケ島というように、天城山の西側にございまして、東側には繩地というのが一つございますが、これはやつておりません。
太平洋の東側まで追い詰められてアメリカを防衛するよりも、太平洋の西のほうへ進出して守るほうがより効果的であるし、より有利であるということから来ておるのでありまして、決してアメリカの軍隊が日本の戦力になつたり、変化するような、そんなものでは……それは軍隊の性格というものを全然誤解しておる議論でございましよう。(笑声)その点を一つ。
○田渕委員 委員長の質問に対して証人が、あの秋葉原駅の東側にある地所を自分が発見したと言うが、これは官庁の公売物件として表示しておつたのですか、それともだれかから聞いて、これをあなたが発見したのでありますか。
一つは四建、一つは近藤、一つは日米サルヴエージ、一つは軍の百五十トン起重機、一つは西日本重工業、一つは廣瀬サルヴエージ、この六ぱいが非常に協力してこれをやつたのでありまして、門司の岸壁の西側の方の岸壁には四千トン級を七はいつなぎ、東側の方には三ばいつないだので、各起重機一ぱいで、二はいくらいの船を担当したり、かつまた一ぱいの船に二はいの起重機が一緒について作業をやつたりしておつたわけであります。
そのためまず表門入口西側の線がくずれ出し、次いで東側に並んでいた主として学生奉迎者がこれと呼声するかのように車寄せ並びに中央芝生一帶に流れ出して、午後一時十分ころには玄関正面の築山付近が人の山となつて、まつたく数分前まで整然と並んでいた東西の奉迎線が乱れて、このままではお召車の通過不能の状態に陷つたのであります。
しかも天皇の車が西側から入るということがわかつたために、東側の前列におつた職員が、スクラムをはずしてどつと西側の方に寄つて来た。これを機会に東側の学生諸君がどつと寄つて来た。こういうことはあの場合に参加しておられた事務及長びある教授が私たちに漏らしておられます。
お着きになる十分前ころ、プラカード四本を掲げた約十数名の一団が警備員の制止を聞かず、東側奉迎列の背後に参りまして、またその後正門近く東側の二、三十名の一団が奉迎線から押し出て来たのを機会として、東側奉迎線全般が前に押し出て来まして混乱して参りました。このころ正門から学生数十名が構内に入つて参りまして西側奉迎線に着きました。
東側のくずれて来た反対の側であります。
現在の設備資金といたしまして約十五億円は必要でありますが、これは四国の今治から島伝いに、全部架空線で中国の呉の少し東側のほうへ渡します。
の最上地域、岩手、宮城両県に亘りますところの北上川の地域、福島、新潟両県にまたがつております只見川を中心にしました地域、栃木、郡馬、埼玉、茨城、東京等の都府県に亘りますところの利根川を中心といたしました地域、北陸のほうに参りまして石川県の能登地域、富山、岐阜両県に亘りますところの飛越地域、長野、愛知、岐阜に亘りますところの木曾川の地域、それからちよつと、東へ戻りますが、静岡、愛知両県に亘ります天龍東側
それは現在ございます支那海及び黄海の漁場の中で、マツカーサー・ラインが引かれました東側、即ち日本の出漁できる範囲は約三分の一、七万平方メートルであります。参全漁場が二十一万平方メートルのところに七分メートルの漁場が許されておりますが、実はその七戸メートルも大部分深海でございまして、底曳漁業に役に立たず、漁獲量から申しますと、全海域の約一五%、一割五分ぐらいのものしか漁がございません。
それから進路を北に向けまして、四国に急速に迫つて参つたのでございますが、三日の零時には丁時土佐沖釣三百キロぐらいのところに参じまして、それから方向を北々東に転じまして室戸岬すれすれに沿岸沿いに四国の東側をかすめまして、淡路島の東側を通過いたしまして、三日の十三時頃に神戸のちよつと西方の方に上陸いたしまして、それが若狭湾に抜けまして、舞鶴の上空を通過いたしまして、それから能登半島を横断し、四日の零時頃
請願第百十八号、湯本駅にこ線人道橋架設に関する請願、請願の要旨は湯本町は鉄道線路により東西は二分せられ四ケ所の踏切りによつて東西の連絡をしているが、客貨車の通過及び貨車の入換等のため交通は極度に制限され又東口には出改札場がないため東側町民と乗降客は甚だしい不便を被つている現状であるから、構内にこ線人道橋を架設し東口に出改札場を設置せられたいというのであります。
非常に風速が早かつたのでございますが、比較的中心付近の雨量は少うございまして、九州で考えましても台風の中心に近い熊本とか長崎とかいう方面は比較的雨量が少うございまして、かえつて東側の宮崎県、大分県の方が雨量が非常に多かつたのでございます。
次に陳情第一号、山形、北山形両駅間府県道大曽根街道山形停車場踏切にこ線橋架設の陳情、この陳情のの要旨は、山形市を縦断する奥羽線の西側は兵営、練兵場であつたため、東側との交通量も従来は少かつたが、終戰後各種工場や学校、住宅等が急に増加したため東西の交通は頻繁となり、現在両者を結ぶ交通路は府県道大曽根山形停車場の踏切のみで日に三万二千六百余の歩行者及び四千三百七十余の車馬の交通量に多大の不便を感じておる
○岡元義人君 この請願の趣旨は非常に皆様に、大きく図面を描いてお配りすればよかつたと思いますが、今回覧いたしますけれども、鹿兒島県を丁度真二つの割まして、西側と東側に分けました場合に、西側の方は鹿兒島市を含んでおりますが、大体国立結核療養所が五ケ所ございます。
これに対しまして海上保安廳の港内艇の「きさらぎ」をして追跡をせしめました結果、足摺岬の東側におきまして、この船團に追付いたのでありますけれども、船團が或いは石を投げ、或いは漁網を流しまして、海上保安廳の船舶が接近することを妨害をいたしまして、遂に船團が北方に遁走をいたした次第であります。大砲を裝填しておりましたのが捕鯨砲でございまするし、あとから北上しました船團が捕鯨船型でございます。
足摺岬の東側沖合におきまして、同船團に「きさらぎ」が追いついたのでありますけれども、この船團は「きさらぎ」に対しまして、或いは石を投げる、或いは魚網を流すといつたようなことをいたしまして、「きさらぎ」の追跡を妨げまして、遂に北方に姿を晦したといつたような事例がございます。