1950-04-07 第7回国会 参議院 法務委員会 第21号
従つて我々は神田に事務所があつた関係上、或いは自分の家が他にあつた関係上、少くともその土地のあれだけはこれはお互に治安に維持して行かなくちやいかんという建前から、たまたまそういうふうに防犯協会しか或いは協力会という話も出まして、いろいろ人からもお話があつた自分の趣旨にも非常に合つたことであるから、できるだけ協力しようということで先ずやりまして、その後その線に倣つた東京警察後援会というのがありまして、
従つて我々は神田に事務所があつた関係上、或いは自分の家が他にあつた関係上、少くともその土地のあれだけはこれはお互に治安に維持して行かなくちやいかんという建前から、たまたまそういうふうに防犯協会しか或いは協力会という話も出まして、いろいろ人からもお話があつた自分の趣旨にも非常に合つたことであるから、できるだけ協力しようということで先ずやりまして、その後その線に倣つた東京警察後援会というのがありまして、
たまたま私も先程申上げました通り東京警察後援会評議員もしておりました。
○証人(佐藤昇君) それは先程申上げましたけれども、警察寮の建設のときに当時の警務課長でありまして、それで警務部と、要するに東京警察後援会とが一体になつで、そういう仕事をやつておつたものですから・…、仕事といいますか、そういう関係は東京警察後援会に対する、何といいますか連絡機関は、要するに警務部がやつておつたのです。そのときの警務課長が間狩さんだつたものですから、その関係で知つておるのです。
次にその塩谷隆雄の関係でありますが、二十二年の春頃に佐藤が東京警察後援会に寄付をしたいということで、寄付をするについて日野昇から当時の保安部長でありました塩谷隆雄に紹介をされまして、そのとき初めて知つた。