2015-08-04 第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第7号
この敵の糧道を断つというのは、実は古来の戦法で、鴻池委員長は剣道をなさるはずですが、木村篤太郎先生という方も剣道の達人、全剣連の会長もされた方で、七高造士館、東京帝国大学法学部を出て、恐らく孫子の兵法だとか昔のこともよく御存じだったと思うんですが、三国志の中にも張飛という人がこの糧道を断つ作戦を取ったりなんかしていると出ているんですね。
この敵の糧道を断つというのは、実は古来の戦法で、鴻池委員長は剣道をなさるはずですが、木村篤太郎先生という方も剣道の達人、全剣連の会長もされた方で、七高造士館、東京帝国大学法学部を出て、恐らく孫子の兵法だとか昔のこともよく御存じだったと思うんですが、三国志の中にも張飛という人がこの糧道を断つ作戦を取ったりなんかしていると出ているんですね。
そして、当時はやはり職業に対する差別がはっきりしておりましたから、水芸の女である滝の白糸が、東京帝国大学法学部を出るような、検事補になったような優秀な青年に対してどうして金を貢いだかということを聞かれる法廷の場面で、そのときに、水谷八重子さんのせりふということでただいま出会っているわけでございますが、だから申し上げたじゃありませんか、それは私の酔狂だったんですよ、それ以上は絶対言わないんです。
いかにすれば有能な官僚を輩出できるかということで、東京帝国大学法学部の前身がつくられたわけでございます。自来、今日に至るまで、有能な人材というのは、特定の優秀だと言われている大学を優秀な成績で卒業して、かつては高文、今は公務員試験を優秀な成績で入った人たちが有能な人材というふうに言われてまいったわけであります。
しかし、やがて俊才として頭角をあらわした君は、第円高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に進まれ、昭和二十二年高等試験行政科、司法科に合格、直ちに大蔵省に奉職されました。以来、津税務署長、大阪国税局総務課長、高松国税局直税部長兼調査査察部長、東京国税局関税部長など、税務行政一筋に力を発揮されました。
幼少のとろより俊英の誉れ高く、向学心に燃えた先生は、長じて旧制相馬中学校から第一高等学校に進み、さらに東京帝国大学法学部に学ばれました。 そして、昭和八年に大学を卒業、高等文官試験に合格後、直ちに内務省に入り、神奈川県に配属となり、地方行政について研さんを積まれた後、本省に戻り勤務されました。
長じて、旧制松江高等学校から東京帝国大学法学部に進まれました。学生時代の先生は、首席を他に譲らぬほど勉学に精励研さんを積まれる一方、その恵まれた体躯を生かし、種々のスポーツに親しみ、オリンピックで銀メダルに輝いた西田修平選手と競い合ったことがあるなど、棒高跳びを初め砲丸投げ、投てき競技に活躍せられました。
先生は、幼少より俊英の誉れ高く、長じて県立城東中学校の四年を修了して、旧制高知高等学校に合格され、さらに東京帝国大学法学部に進まれたのであります。 先生は、単に学業に秀でたばかりでなく、スポーツも万能であり、とりわけ水泳には目をみはるものがありました。先生は、少年時代から、生家の近くを流れる鏡川で、毎日夕方遅くなるまで水泳に励んでおられました。
御尊父は有為の弁護士として活躍をされておりましたが、そのすぐれた資質を受け継がれた先生は、長じて東京府立第一中学校から旧制静岡高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等文官試験の外交、行政の両科に合格されました。そして、昭和十六年十二月大学を卒業するとともに、外務省に入られたのでありますが、入省後間もなく臨時現役兵として終戦まで軍務につかれました。
昭和十五年、東京帝国大学法学部に進まれた先生は、在学中に既に高等文官試験の司法、行政の両科に合格されました。昭和十八年御卒業後、間もなく兵役につかれ、海軍主計大尉として南洋諸島を転戦し、レイテ島で終戦を迎えられました。 戦後昭和二十一年、内務省に入られた後、富山県経済部農務課長として、当時の窮迫した食糧問題に取り組まれたのであります。
私は、昭和十年四月、「紅萌ゆる丘の花」、京都の第三高等学校の同級生として湯川君と三年の青春を送って以来、東京帝国大学法学部でともに学び、また、海軍主計科士官として大東亜戦争を同じ太平洋南方戦線で戦い、さらに、この十年間は本衆議院で議席を同じくして、半世紀を超える交遊を重ねてまいりました。
先生は、二高を卒業後、東京帝国大学法学部に進まれ、在学中に高等文官試験の司法、行政の両科に合格し、昭和十五年、大学を御卒業されるとともに内務省に入省されたのであります。ところが、入省わずか四カ月で兵役に服され、四年間の軍務を経て、海軍主計大尉で予備役となり、再び内務省に戻られたのであります。
(拍手) 君は、明治四十五年一月、京都府福知山市に生まれ、福知山中学校を抜群の成績で御卒業になり、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部に学ばれました。 小学校時代より剣道に親しまれた君は、三高時代に寮生活の中で剣道部の厳しいけいこに没頭し、他校によく武者修行に出かけて剣を磨かれました。
(拍手) 昭和十二年、高校を卒業、東京帝国大学法学部に入学されました。時代は日中戦争の最中であり、先生は、勉学と研究にいそしみ、特に矢部貞治教授に私淑し、その薫陶を受けながら、悔いのない青春を過ごされたのであります。 在学中に高等文官試験行政科に合格し、昭和十六年、卒業と同時に厚生省に入省されました。
大変恵まれた家庭で育てられ、旧制広島高等学校を経て、昭和十六年東京帝国大学法学部を卒業、在学中に高等試験司法科試験に合格され、直ちに海軍に入隊をされました。
このような状況にありながら、先生が宮津中学に入られ、さらに第一局等学校から東京帝国大学法学部へと、最も恵まれたコースを歩むことができたのは、先生のお話によりますと、中学進学を勧めた恩師が、「もし学資ができないなら、自分の月給から出させてもらう」とまで言われ、両親を熱心に説得してくださったたまものであると感謝し、この御恩は、世のため、人のためにお返ししたいと語っておられます。
石破二朗君は、明治四十一年七月鳥取県八頭郡郡家町に生まれ、鳥取県立第一中学校、高知高等学校を経て、昭和七年東京帝国大学法学部を卒業し内務省に就職、戦後、建設省都市局長、官房長を歴任し、昭和三十年建設事務次官に昇任されました。 昭和三十三年官界を去って鳥取県知事選挙に出馬し、みごと栄冠をかち取り、その後再選を重ねること三度、通算十五年余にわたって県政の指導者として力量を発揮されたのであります。
やがて君は、自由と剛気の気風で知られる第五高等学校へ進まれ、さらに東京帝国大学法学部政治学科へと進まれました。昭和二十年大学を卒業して直ちに農林省に入られた君は、一時通商産業省、在ビルマ日本国大使館及び福岡県に出向されたほかは、一貫してわが国の農林水産行政のために粉骨砕身され、数多くの業績を残されたのであります。
萩原幸雄君は、大正十二年十月、広島市の西、広島県佐伯郡大野町にお生まれになり、旧制広島一中四年修了後、旧制広島高等学校を経て東京帝国大学法学部に進まれました。終戦直後の昭和二十年九月、大学を卒業された君は、戦禍を受けて荒廃をした国土の復興と国民生活の安定に若い情熱をささげるべく、内務省に入られました。
前田君は、明治四十二年和歌山県に生まれ、少年時代から俊秀の誉れ高く、東京帝国大学法学部卒業後、逓信省に入り、昭和十九年小磯内閣の成立を見るや、運輸通信大臣前田米藏氏秘書官に抜てきをされ、当時政界きっての老練な政治家として定評のあったこの郷里の大先輩から一方ならぬ薫陶を受けられたのであります。このことは、後日、君が人情味豊かな政治家として大成する縁となったことでございましょう。
迫水君は、明治三十五年八月、東京都に生をうけ、少年時代から俊秀の誉れ高く、第一高校学校を経て、大正十五年、東京帝国大学法学部を卒業と同時に大蔵省に入り、自来、昭和二十年、銀行保険局長を最後に同省を退官されるまで、大蔵官僚としてきわめて順調に昇進を続けられたのでありますが、その間、公務員としましては全く異例とも言うべき進路をとり、幾多の試練に耐えて難局を乗り越えてこられたのであります。