2016-02-24 第190回国会 衆議院 総務委員会 第4号
しかも、首都法というものが法律がなくても、天皇陛下は一八六九年三月七日に京都から東京、当時は東京城と言いましたが、東京にいらしていただいたわけですが、京都の人は今でも、ちょっと行ってくると言いながら、まだ帰ってこない、こう言うこともあります。
しかも、首都法というものが法律がなくても、天皇陛下は一八六九年三月七日に京都から東京、当時は東京城と言いましたが、東京にいらしていただいたわけですが、京都の人は今でも、ちょっと行ってくると言いながら、まだ帰ってこない、こう言うこともあります。
まだ東京が、二百六十五年の江戸時代というのがあったわけでございますが、一八六八年に東京城という、江戸城が変わって、その後、江戸という名前を使っていたときの方が長い。
一八六八年に江戸城が東京城に変わりましたが、新しいミレニアムに東京の脱皮といいますか、新しい世紀に対する東京のグレードアップ、そういうものが首都機能移転と複合的に作動し、お互いが影響し合ったら私は日本という国はすばらしい新生国家になるのではないか、こんなふうに考えておりますので、一日も早い国会での御成案、これは政府と協議をしながら成案を得るものと考えておりますので、政府と国会が両々相まっていい案ができますように
そういう形が、私は、天皇が御動座をなさる、天皇が動かれるというのが今までの遷都という意味合い、一八六八年、江戸城を東京城という皇城ということを決められたときの意義とは少し違う。これは、橋本龍太郎総理大臣もそういう意味のことをおっしゃっている。天皇に御動座いただく意味の首都機能移転というものではございませんと。首都機能移転で、首都移転ではない、こんなことです。
明治二年に東京城を皇城と発表しておりまして、この皇城というのは、皇居、天皇が居住するところと、官衙、太政官政府のあるところという意味でございまして、いわば正式な遷都の発令こそありませんけれども、この明治二年からは奠都、都を定めたものと私たちは認識しております。
そうしてさらに東京城から牡丹江まで約三日かかるのですが、そこを行軍して来たのですけれども、畑のすみの方で虫の息で倒れておる者、あるいはもう変色して水の中で死んでおる者、こういう者が非常にたくさん間断なくあつたと言つてもさしつかえないほどの犠牲が出ております。師団司令部は一番先に自動車に乗つて、第一線の兵隊をほつたらかして逃げてしまつた。連隊長も逃げてしまつておる。
捕虜になりましたのは二十年八月二十日、東京城付近であります。そして九月二十日にコムソモリスクの第一分所に入所し、二十一年六月十二日までコムソモリスクにおり、十二日にハバロフスクの第二分所に所属し、日本新聞に入りました。それからポール四地区、五地区あるいはナホトカに勤務いたし、一九四七年の暮れまで日本新聞におりまして、それから第十六地区の議長として昨年の十月二十二日帰国までハバロフスクにおりました。
○高山証人 私たちは東京城へ下つて、そうしてさらに敦化の方に下つて行けという命令をもらつて、毎日山の中を行つたわけです。東寧から出て来た、逃げ遅れた開拓団の婦女子と前後して下つて行つたわけなのですが、その間大密林芸で食物も全然なかつたのです。私たちは砲兵隊ですから馬を持つておるわけです。
九月九日東京城において武装解除を受けました。
○亀沢証人 昭和二十年九月九日、満洲国東京城におきましてソ連軍の捕虜となりました。そうして昭和二十年十二月、満洲国掖河第二陸軍病院——これはソ連軍経営の病院であります。この病院に主計課勤務員として勤務、そうして昭和二十一年四月、ソ連軍とともにシベリアに入りました。そうしてウオロシーロフ地区ルイチキにおりました。そうして二十二年六月ラゾウに転属しました。
しかし私は幸いにしまして、その年の十月一日に釈放されることができまして、爾来ハルピンに下りまして、ハルピンで生産工場を企画、またこれを成功さしたのでありますが、その後昭和二十三年の十月の末に至りまして、興安嶺並びに東京城という所に日本の兵隊が大分残つておるというような話があつたぞうでありまして、それに私が関連をしておるという嫌疑を受けまして、私はそれからまた再び牡丹江の監獄に收監されたのであります。
○証人(亀澤富男君) 大正十四年二月十五日静岡県靜岡市太田町十二番地出生、爾後小学校、靜岡県立工業学校を卒業し、浜松高等工業学校中退、後、茨城県内原国民高等学校栄養部を出まして、満州移住協会、満州興務部の招聘によりまして、満州国勃利県公署開拓関係の衛生食品加工方面に従事、一九四五年開戰と共に召集を受けまして、満州第二六三九部隊野戰自動車兵器廠付に命ぜられましたが、本隊はおらず、東京城におきまして九月九日捕虜
○証人(高山秀夫君) 連隊長の中曽根中佐は常に戰線の状況について、連隊本部に所属するものについてはその当時の状況を話しておりましたし、それから後退しつつ師団長或いは参謀長と前後してずつて捕虜になつた東京城附近まで下つて行きましたから、本体牡丹江方面の戰闘の状態は砲兵上等兵でありましたけれども、よく分つておりました。
それに一般の難民の状態はどうなつたかと申しますと、牡丹江市内に約一千、それから拉古に約一万、それから東京城、寧安、勃利、依蘭、方正という所に大体合せまして約三万の難民がそこに集まつておつたのであります。合計十三万程度の者が東満地区にその当時残されておりました。
その後更に又一昨年から山の中に兵隊かまた残つておるというような話がありまして、これはその年の初め頃から、興安嶺とか、東京城の山の中にこれらの救援に行つた人があるようでありますが、これらの救援に行つた方を、更にこれを日本人のスパイということにいたしまして、連累者とみなされた者も約三十名程ハルピン、牡丹江において引つ張つてしまつたのであります。
そのまま兵は山の中に入れて置く、そうしてそのまま武裝解除の準備をするがよいかと言うとよろしいということであつたので、こういう命令を下して武裝解除の準備をしておつたところが、八月三十一日に突然にソヴイエトの百八十四師團長というのが参りまして、お前と参謀長と副官と兵隊一人と、これだけは私と一緒に今日東京城というところに來て呉れ、部隊は山から下して我々の方の指揮を受けて呉れ、こういうお話がありましたので直