2007-05-11 第166回国会 参議院 日本国憲法に関する調査特別委員会 第12号
ここで、昭和十八年に大東亜会議というようなものが、今日、けふと書いてありますけれども、「けふ歴史的開幕」と。ちょうどあのマイクの辺りに立っているのがこの写真の中心にいらっしゃる東条首相です。この部屋です。
ここで、昭和十八年に大東亜会議というようなものが、今日、けふと書いてありますけれども、「けふ歴史的開幕」と。ちょうどあのマイクの辺りに立っているのがこの写真の中心にいらっしゃる東条首相です。この部屋です。
ですから、その前のことについては、これはまた私は別の議論ではないだろうかと、このように思うわけでありまして、ましてや、この大東亜会議とこの現行憲法との関係性というのは、これは余り私は、また我々がこれから憲法を変えていこうという議論とは、これは余り関係がないのではないだろうかと、このように思います。
そして、適切な修正であったのかどうか、私たち見ることまだできておりませんので、特に韓国併合あるいは大東亜会議、そして南京事件、これらのことについてどのような内容であって、どのような修正が行われたのか、お聞かせください。
さて、今から五十二年前の同じ月、十一月、東京において大東亜会議が開かれました。アジア各国の首脳が日本の地に集うのはそのとき以来、五十二年ぶりのことであります。戦後五十年の節目の年に、アメリカやオセアニア等の国々も加えて、戦場ではなく、自由な市場のあり方についての会議が持たれたことに深い感銘を覚えます。
くしくも今から五十二年前の昭和十八年十一月五日、この国会議事堂内の現在の参議院第一委員室において、アジア六カ国の指導者を集め、大東亜会議が開催されておりました。会議の冒頭で日本国代表東条英機内閣総理大臣は代表演説を行い、戦争遂行の決意と大東亜共栄圏の確立を内外に宣明いたしておりました。 日本のためのアジアという幻想と虚構に陥って犯した五十年前の失敗は、二度と繰り返してはならないと考えます。
戦争が負けてきてから大東亜会議を開いたりして独立を与えたてばないか、そういうような批判もあるわけです。そういうような批判全般をよく受けとめて、ともかくわれわれは、私自体はあれは間違った戦争である、私個人としてはそういう判定を持っております。そういう反省に立って私たちはこれから平和のために努力していかなければならぬ、そう考えておるのであります。
あるいは外務省関係の要求されたところの内容を見ても「大東亜会議録音盤アルバム、第一から第六まで」とか「東条首相野村大使間電信綴」とか「在満文本邦警察統計及び管内状況報告」あるいは「赤色支那誌」 「欧州戦争勃発以後のコミンテルン解消までの状況」など、日本の政府が当時どのように日本の治安を見ておったのか、日本の思想弾圧をやっておったかという問題についても、ほんとうに日本の新しい国家建設にとって重要なものがそこには
十七年に帰って国務大臣にたるや、これは大東亜大臣としてこの参議院の建物の中において大東亜会議を主宰せられ、そして大東亜共栄圏を誇示せられたのであります。
それが太平洋戰争の最中に大東亜会議というものを開いたときに、蒙古を呼ばなかつたというので、蒙古の徳王が日本の政策に協力しなかつた。そこで徳王を連れて来た人がありまして、これが博多へ上つたときに日本が今回の会議に君を呼ばなかつたことをお怒りのようであるが、われわれの祖先が六百年前にこういうことをしておるのだ。十幾万のなきがらの霊を供養するために供養塔を建てておる。