2019-02-27 第198回国会 参議院 国際経済・外交に関する調査会 第2号
実はローマがなるだろうというのが有力であったんですけれども、それを差しおいて東京に決まったわけですけど、幻のオリンピックですけれども、このとき大活躍というかサポートした外交官に杉村陽太郎という人がいらっしゃいます。フランス大使をやりまして、それから国際連盟の事務次長、新渡戸稲造の後を継いだ方でございます。彼がムッソリーニに引き合わせた当時イタリア大使でした。
実はローマがなるだろうというのが有力であったんですけれども、それを差しおいて東京に決まったわけですけど、幻のオリンピックですけれども、このとき大活躍というかサポートした外交官に杉村陽太郎という人がいらっしゃいます。フランス大使をやりまして、それから国際連盟の事務次長、新渡戸稲造の後を継いだ方でございます。彼がムッソリーニに引き合わせた当時イタリア大使でした。
かつて国際連盟の次長として新渡戸稲造さんと杉村陽太郎さんが勤められた。これは杉村さんは外務省の大先輩であります。この方たちだって非常に短い期間しか次長としてお勤めにならなかった。 ただ、おもしろいのは、あのお二人とも岩手県の御出身なんです。そして、次長は秋田の御出身である。
願わくはそんな非常識なことはせぬでくれ、大来君の先輩でもあり、私の先輩でもあるあなたの外務省の大先輩の杉村陽太郎という人があるでしょう、あの人が極東オリンピックに戦前示したような勇気ある態度をとってほしいと私が言っとったということを、課長、よく外務大臣に伝えてください、よろしいか。
私は、これは昭和の初年に上海事変の後を受けて、軍部がマニラで開かれた極東オリンピックに不参加の強い圧力をかけましたときに、これはイタリー大使だったですかね、杉村陽太郎さんが非常に勇気のある態度で、行くべきだということでこの極東オリンピックに行かしたですね。ああいう毅然とした人が一人でもやはり閣内におる、あるいはスポーツ団体におるということを望みたいわけですよ。
ところが、当時のイタリアはムソリー二時代でして、当時は日本とイタリアは政治的に非常にいい関係にあつたので、そのときの大使の杉村陽太郎さん——これは柔道と水泳の人で、有名な運動家でありまして、私どもの大先輩でありますけれども、この方が、ローマさえひつ込めば必ず日本に来るのだというふうに追い詰められた結果、ムソリーニに会つて、イタリヤの立候補をひつ込めさしたのです。
もう一つは、この前杉村陽太郎さんの努力で、日本のために讓つたローマが残つているわけです。ですから、ヨーロツパでやるということが案外有力で、六〇年に日本でやるということは、結局無理ではないだろうか。しかし六四年にやるということは、今出しておけば間に合わないことはない。米州も、三箇所ばかり有力に申し込んでいるわけです。