2015-03-10 第189回国会 衆議院 予算委員会第八分科会 第1号
この南は渋谷区側になるわけでございまして、こちらの方に日赤病院、広尾病院、各国大使館、また有栖川宮記念公園などがありまして、駅前は買い物でにぎわい、子育て世代も多く集まるスポットになっております。
この南は渋谷区側になるわけでございまして、こちらの方に日赤病院、広尾病院、各国大使館、また有栖川宮記念公園などがありまして、駅前は買い物でにぎわい、子育て世代も多く集まるスポットになっております。
また、日清戦争で功績の大きかった有栖川宮、北白川宮両親王の軍装の肖像が明法二十九年の八月に日清戦勝記念切手として発行されております。これは二銭と五銭の二種類。それから、大正十年に今上陛下が皇太子の時代ヨーロッパを御訪問なされたときに記念切手が発行されておりますが、これはお召鑑の「鹿島」と「香取」、一銭五厘と三銭と四銭と十銭、この四種類が東宮御帰朝記念ということで発行されておりますね。
もしあなたのお父さんや大隈伯爵のような人々の考えておる――大隈伯は明治十四年に、有栖川宮と一緒になって憲法を一挙にやろうとして失敗いたしまして野に下った。それ以来日本では、そういうことが日本の悲劇であった。そうして日本は敗戦によってこの国家主義と官僚主義と軍国主義が滅びてしまった。そうしてアングロサクソン的な民権主義だけが残ったのです。
この高松宮の御所有になつておる土地家屋の今まで成行を一応御説明いたしますならば、明治四十年に有栖川宮様が福島県の翁島などにありまする民有地二百六十余町歩というものを買上げられたのであります。そののちに土地建物を新築せられたような経過もございまして、大正二年に高松宮にこれらの土地家屋が贈進せられたのであります。
問題となつている高松宮御用地は、福島県耶麻郡翁島村、同県安積郡月形村、福良村に所在するものでありまして、明治四十年十二月有栖川宮威仁親王が当時公簿面積二百六十三町歩余の民有地を買上げられ、翌四十一年八月に四百四十五坪の洋式別邸及び附属家屋を新築せられたものであります。
○上條愛一君 もう一つお伺いいたしたいのは、この有栖川宮殿下が土地お買上げの際に、若し将来においてこの土地が不要のときか、又は御別邸が廃止等のときは元の地主に返還すると、こういう話があつたということがこの陳情書にも明記しておりまするが、殊にこの陳情書には、その証人としては当時土地の買上げに当つた翁島の二瓶助役がなお存命中であるというふうに書かれておりまするが、こういう点について宮内庁としては、宮家としては
○上條愛一君 宇佐美さんにお伺いいたしたいと思うのですが、今お話になりました高松宮殿下の福島県に御下賜後における処置については、例えば、まあ地元民といたしましては、有栖川宮殿下のお買上げのときの申合せとして、不要になつた場合には、或いは御別邸が廃止等の場合には元地主に返還するというようなこともあつたようでありまするが、今おつしやつた高松宮殿下のお話の中には、そういう土地をやはり観光厚生施設以外に、必要
○成瀬幡治君 宇佐美さんにお尋ねしますが、有栖川宮から高松宮へ別邸が移つておるわけですが、そのときに、有栖川宮が土地或いはそうしたものを買上げられるときに土地と何か約束があつたのだろうという点を我々聞いておるわけですが、今度払下げになることについて、高松宮からあなたは何かそういうような点についてお聞きになつたことがあるかどうか。
この今回福島県に下賜されようという土地が明治四十年に有栖川宮殿下が別墅を営むために付属地として、当時の宮内省でお買上げになつた土地であるということは争いのないところであろうと思うのであります。ただこの村は山間の村でありまして、非常に土地が狭い、耕地も少い。
○鈴木(義)委員 そこで前回も大正十四年に有栖川宮様から高松宮殿下にお譲りになられまして、そうして十四年に高松宮殿下が御成年になつたというので、その祝意を表するためにこの山林の一部を解放されまして、福島県に下賜されたということも歴史的な事実になつております。八十町歩を下賜された。
明治四十年の十二月に福島県耶麻郡翁島村、安積郡月形村、福良村の王地に有栖川宮殿下が当時公簿面積二百六十三町歩余りの民有地を買上げられまして、翌四十一年の八月に四百四十五坪の洋式の御別邸と同附属家屋を新築され、事務所を置いて管理されたのでございます。
○宇佐美政府委員 このたび御下賜になります翁島村、月形村、福良村の三地域は、沿革的に申し上げますと、明治四十年の十二月に有栖川宮殿下が、当時総面積二百六十三町歩余りの民有地を買い上げられまして、翌四十一年八月に四百四十五坪の洋式の御別邸と付属家屋を新築され、事務所を置きまして、管理されたのでございますが、大正二年に、これを高松宮殿下に贈進されることに決定いたしまして、当分の間当時の帝室林野局が管理することとなつたのでございます