1959-12-09 第33回国会 参議院 外務委員会 第14号
「昭和二十年八月二十日頃より「サイゴン」飛行場及びプノンペン飛行場に仏軍進駐先遣隊が空中より逐次到着「カンボチャ」全地区及び南部ベトナム地区に駐屯していた日本軍人及び軍属は逐次「西貢」飛行場を中心とする周辺に集結を命ぜられ、八月二十八日頃概ね集結を完了したが再度連合軍命令により「サンジャック」を最終集結地と指定、九月十日前後該地に移動終結完了、当時の集結人員は、陸軍軍人軍属総計約五万」これはサイゴン
「昭和二十年八月二十日頃より「サイゴン」飛行場及びプノンペン飛行場に仏軍進駐先遣隊が空中より逐次到着「カンボチャ」全地区及び南部ベトナム地区に駐屯していた日本軍人及び軍属は逐次「西貢」飛行場を中心とする周辺に集結を命ぜられ、八月二十八日頃概ね集結を完了したが再度連合軍命令により「サンジャック」を最終集結地と指定、九月十日前後該地に移動終結完了、当時の集結人員は、陸軍軍人軍属総計約五万」これはサイゴン
次にペガワト地区第五分所、次にタシケント地区第九分所、同じくアングレン地区第六分所、次に最後のカラカンダ地区第九分所、及び十五分所を経て、最終集結地のナホトカ第三分所に移つて行つたものであります。 ベガワトの第一分所入所年月日は、昭和二十年十一月二十五日であります。
さらにまた私たちが、このたび二月の七日にナホトカを出発して来る際に、ナホトカの最終集結地に九十名が残つていることを、はつきり目撃もし、内容も確かめてみたわけであります。そのうちの約半数は希望をして残つている。また今度帰つて来た中には、七十名のものが希望をして、残留届を出しておつたにもかかわらず帰つて来たという事実が、はつきりしたわけであります。
中間集結地よりさらに次の中間集結地、あるいは最終集結地へというように、輸送関係からラーゲル移動が行われたと予想されます。こういう四つに区分されると思います。
○証人(宗像創君) 千九百四十七年の四月から四十八年の一月までナホトカにおりましたので、最終集結しつつそこを通過する部隊の報告によつてそうした概数が出ております。それは飽くまでも事実であります。
○証人(高山秀夫君) 主としてハバロフスク地方、その参加地区は、第十六地区、それから第五地区、コムソモリスク、第四地区、イズヴエスト地区、第十九地区、ライチハ、それから沿海州の管轄の内務省、それから労働大隊、それから最終集結のナホトカ、それから樺太のオハ、これらの地区が主として参加しております。その外中央アジアの方からも、只今申上げましたように、各地区から署名した文書が郵送されて来ております。
私は従つてナホトカに、最終集結地に来てまでも、階級章など一切佩用しておりました。尚收容所で兵隊と一緒にいる間においても佩用しております。
○淺岡信夫君 これは引揚げて参りました秋田県の一ノ関貴三郎という永豊丸の一引揚者でありますが、その引揚者の語るところによりますと、一九四九年十一月下旬ライチハにおいて、最終集結地で復員式をやつたそうでありますが、ソ側の外務省官吏も出席されました。その時にソ側の代表の報告は、日本語にて、「一つ、諸君が見らるるごとく、輸送は現在非常に停滞しつつある。
桑原氏と自分と一緒になりましたのは昭和二十二年一月六日だと思いますが、興南の朝鮮における最終集結において一緒になりました。この地におきまして桑原氏が、これだけの人員を非教育者として名簿を出せというのを持つて参りました。その中に看護婦が入つておつたのであります。我々といたしまして看護婦の保護のためには相当苦しい思いをやつて來たわけであります。
二十二年の十二月一日にナホトカに着きましたときに、私共はいわゆる最終集結地であるからして、ここに勤務しておる職員は祖國に帰る同胞を迎えるために、暖かい言葉とできるだけの施設と温情とを以つて迎えて呉れるものと、一縷の期待を持つておつたのであります。ところが着いて見ますと、受けた感じは非常に陰惨であります。
それから最終集結のナホトカに参りましたときには、これは日本兵は私共のおりました收容所には、初めに入つた收容所には三百人くらいおつたのじやないかと思われます。その外の建物から毎朝その横を労働のために通つて行くのが、暗いが人員を私計算して見ますと二、三百人はおつたように思われるのでございます。それから鉄道線路の横に材木工場がございましたが、そこでも相当な数が働いておりました。
それから昨年の十二月二十一日に急に出発を命ぜられまして、九人の者と一緒にナホトカという最終集結地に参りました。そこで約四十日程滯在をいたしまして、本年の一月の三十日にそこを出発しまして、ウラジオの近所の飛行場、これは名前は分りません、その飛行場に到着いたしました。
最終集結所まで行つて、それから日本へ帰るのだと言つておりましたが、勿論船はあると思つたんです。又こういうふうにも考えたのです。まあ今年は暖かいからまだ船が來ているだろう、そうでなかつたら、最終の病人だけでも引揚げるために病院船が來ておるだろう、こう思つておつたんです。ところが將校はそういうことを申しますと、非常に困りまして、しよつちう電報で何か照会しておりました。