1969-03-25 第61回国会 参議院 文教委員会 第5号
ですから最初、終戦直後何年間は私も中学校の教師をやった経験がありますが、生徒会活動なんというものにつきましては、これはみんな生徒は一生懸命やった。高校も同じでしたよ。その生徒会活動をみなやることによって子供の個性は非常に伸長されますよ。そういう活動を通じて、その友だち同士が一緒に仲よく助け合う、協調するという、そういうものも自然に養われる。
ですから最初、終戦直後何年間は私も中学校の教師をやった経験がありますが、生徒会活動なんというものにつきましては、これはみんな生徒は一生懸命やった。高校も同じでしたよ。その生徒会活動をみなやることによって子供の個性は非常に伸長されますよ。そういう活動を通じて、その友だち同士が一緒に仲よく助け合う、協調するという、そういうものも自然に養われる。
一番最初、終戦直後ごろ、昭和二十三年でしたか、外務省が発表されたのは、そういう未払いの債権は大体九十億円ないし百二十億円と発表された。その後だんだんだんだん金額が上がって、この間池田さんと朴議長との話し合いでは七千万ドルというふうに値上がりした。インフレですよ、これは。
○政府委員(安田善一郎君) 私も最初、終戦後、国有貸付の形でジャージーを入れた事情をいろいろ聞いてみましたが、いささか勉強足らずで、はっきりとつかめなかったものでございますが、二年前、乳価が非常に値下がりをいたしました際に、乳価上の問題と、もう一つは、ジャージー地区を作りまして、ほぼ原料乳生産あるいは市乳のまとまった販売というふうな共同販売が可能になるほど頭数がふえます場合々々によって、場所によって
これは御存じのように一番最初、終戦直後には西日本の中小地主の要求を基礎としたところの大分県の農地協議会ができ上がっております。続きまして、今度は東北地方において農地改革違憲訴訟ということが出ております。そういうような状態の中で講和条約が発効になってきた。講和条約が発効になると同時に、二十七年ごろからは全国的に大きな問題が出てきた。
最初終戦直後の民主的な考えがこういうものを削除しようという方向に行つておる、即ち日本の教育は反動のほうを向いて一歩ずつ歩み出しておるということを私は指摘しておるわけです。こういうことが好ましいことかどうか。これが文部省に迎合する著者たちの意図です。こういうことをされておる。
最初終戦以後人権を擁護すべきことを強調してこの仕事が出発したときから考えて参りますと、仕事の量がどんどんふえて行つているにかかわらず、この局はだんだん実質的な機能を低下しつつある。
たとえば選挙区の問題にいたしましても、大選挙区制として、比例代表、もしそれが不可能であるならば、大選挙区にして、何かの方法——一番最初終戦後やられた連記制というようなこともよいと考えます。しかし時間的の制約がございましてそれができないとすれば、まず部分的な改正をして、一応参議院選挙をするということでもよいと考えます。
殊に最初終戦後におきまして在外事務所の設置の場合に、我々といたしましては是非経験のある産業人をこれに加えて進出をすべきであるということを申しておつたのでありますが、それらの点においてはまだ遺憾の点があつたと思います。
こういう一つの事実があつたときに、私は今国家公安委員、国家の公安に任ずる方として、これは全く詐欺のやり方と思うのでありますが、これと変つた形式の問題で一番最初、終戦後家を建ててやるというので相当まとまつた、当時五百円だつたと思いますが、というようなものを送つて、結局は二年か三年あとに家も建てずに何にもせんで、やかましく言つて返したのもあり、返さないのもあるというような事実がある。