1959-12-04 第33回国会 参議院 外務委員会 第11号
○吉田法晴君 そうしますと、資料要求で、明号作戦あるいはイ号作戦といわれるような戦闘行為を伴いましたものについての資料を政府に要求したのですが、それはまだ出ておりません。きょう出されたという中に入っているかどうか知りませんが、少なくともきのうまでまだ……。きょう出されたものもまだ受け取っておりませんが、そういうものはあるのですか、ないのですか。
○吉田法晴君 そうしますと、資料要求で、明号作戦あるいはイ号作戦といわれるような戦闘行為を伴いましたものについての資料を政府に要求したのですが、それはまだ出ておりません。きょう出されたという中に入っているかどうか知りませんが、少なくともきのうまでまだ……。きょう出されたものもまだ受け取っておりませんが、そういうものはあるのですか、ないのですか。
たとえば明号作戦で五万人武装解除して何人死んだ、そういう直接の戦闘行為による被害もわかっているのですか。
○岡田委員 日本とフランスとが明号作戦で戦争しましたね。これによって日本がフランス人あるいはベトナム人に損害を与えた、これは十四条の規定が地域主義である限り当然戦争損害と規定すべきである、こういうことになりますね。フランス人の損害であってもベトナム人の損害だ、こういうことになるわけですね。
明号作戦の場合、フランス人がベトナム人を殺した、こういう事実について、そういうことがはっきりわかった事実がございますか。
○岡田委員 それでは先ほど具体的な例がありましたが、昭和二十年三月九日、これはすなわち明号作戦といいますが、その明号作戦によって日本の軍隊とフランスとの間に戦闘行為が行なわれたわけですね。この戦闘行為によって生じた損害、この損害の中でフランスの個人のもの、これは当然その地域内で行なわれた限りにおいてベトナムの損害と見るべきである、こういうことになりますね。
御承知のように、先ほど横山正幸氏が申されましたが、明号作戦というものが四十四年の三月九日に始まりました。これは一言に申しますと、全ベトナムのフランスの勢力を日本軍が一掃するために企てた作戦でありまして、これは彼我の戦闘は大したことなく、日本軍の作戦目的は達成されました。この明号作戦で、日本軍は全ベトナムの公も私も一切の重要施設、産業施設を接収したのであります。
それからまた明号作戦が始まります前から、やはり若干の兵補として若い青年が非常に元気よく日本軍と協力しておりました。これが先ほど申しましたように、北の方では終戦後共産党の手で非常に迫害されました。南の方はフランス官憲の手でこれが迫害されました。いろいろの例がありますが、かなり協力者としてひどい目にあっていたわけであります。
松本大使は軍の要請から外交交渉をドクーとやっておったのでありますが、明号作戦をするということはひた隠しに隠しまして、作戦の遂行のために外交折衝を三月の九日に深夜やっておりました、いろいろその後の情勢から判断しますと、一応みなフランスの当局者は軟禁状態に置かれまして、これが一カ所に集められまして、終戦後まで保護されておりましたし、当時、明号作戦が終わると同時に、カンボジア、ラオス、ベトナムの独立をそれぞれ
○国務大臣(藤山愛一郎君) 御承知のように一九四五年の春には明号作戦と申しますか、六月にはイ号作戦、北部から日本軍が入って参りました。それによりまして戦闘行為も行なわれたわけでございますが、また同時に日本がその期間におきまして徴発をし、あるいは経済的なベトナムにおける利益を害したことも、また物的損害も若干にしてもあると思います。
○政府委員(小田部謙一君) 明号作戦は、一九四五年二月にすべてのフランス軍と武装警察とを日本の指揮下に置くこと、軍事行動に必要なすべての通信運輸機関を日本の管理に置くことという目的で始まっております。そしてサイゴンにおいて若干の撃ち合いがあったのみで降伏した。ハノイにおきましては、ハノイ仏印軍兵営攻撃で三月十日午後仏印軍降伏、兵営、燃料倉庫等破壊した。
その期間に、御承知のように、一九五五年の三月には、明号作戦という作戦をしておるわけであります。六月にはイ号作戦と申しまして、シナの方面から北部に入ってきております。これによりまして、相当の餓死者も出、相当の損害を与えたことはもちろんでありまして、これらを含めて、全ベトナムを代表する政府として賠償の交渉をいたしておるわけでございます。
従いまして、翌年まで一年間戦争状態にあったということがいえるわけでありまして、その間日本軍といたしましても、五五年の三月には明号作戦という作戦をやっております。また六月には支那におりました軍隊が北部から入って参りまして、いわゆるイ号作戦を起こしております。そのために直接戦争の損害が起こっておりますし、また同時に日本がその間に食糧その他を徴発いたしました関係によって、餓死者等も相当に出ております。
しかしその仏印に対する主たる戦闘的作戦行動というものは、一九四五年の三月における明号作戦と申しますか、あるいは六月におけるイ号作戦、中共の方から入って参りました日本軍隊の作戦、そういった戦闘がこの一年間にも行なわれております。