1951-08-18 第11回国会 衆議院 本会議 第3号
国際條約上に現われました千島の歴史は、安政元年、すなわち一八五四年の日露和親條約ーー神奈川條約ともいわれ、また下田條約ともいわれているのでありますがその規定におきましては、こう書いてあります。今より後、日本とロシヤとの境、すなわちエトロフ島とウルツプ島の間にあるべきものであつて、エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、それより以北のクリール諸島はロシヤに属すると書いてあります。
国際條約上に現われました千島の歴史は、安政元年、すなわち一八五四年の日露和親條約ーー神奈川條約ともいわれ、また下田條約ともいわれているのでありますがその規定におきましては、こう書いてあります。今より後、日本とロシヤとの境、すなわちエトロフ島とウルツプ島の間にあるべきものであつて、エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、それより以北のクリール諸島はロシヤに属すると書いてあります。
この事実を裏書するものは、一八五四年の日露和親條約及一八七五年の樺太クリル交換條約である。 然るに戦後の混乱により住民の多くは全財産を島に残し北海道本土に引揚げを余儀なくせられ生活苦と斗い朝な夕な間近に聳ゆる千島の山々を望んで深い郷愁思いを馳せている。
故に安政元年の日露和親條約に基くところの国境線も擇捉水道に置かれ、択捉以南の島々は我が国の領土であることは何人も認めるところであります。更に択捉以北の島々は、明治八年樺太クリル交換條約において、多年邦人の苦心経営して来た樺太を割愛する代償として、全く平和裡に我が国に讓渡されたもので、爾来漁業開発を継続して来たのであります。 第二の点について申上げます。