1960-12-01 第36回国会 参議院 法務委員会 閉会後第2号
そこで検察官が捜査いたしましたところによりまして、重点的に御報告を申し上げますと、まずこの基礎的捜査において検証、捜索等を事件発生直後からいたしておりますが、日比谷公会堂における検証、捜索、日比谷病院においての死体の検視——淺沼委員長の死体の検視でございます。
そこで検察官が捜査いたしましたところによりまして、重点的に御報告を申し上げますと、まずこの基礎的捜査において検証、捜索等を事件発生直後からいたしておりますが、日比谷公会堂における検証、捜索、日比谷病院においての死体の検視——淺沼委員長の死体の検視でございます。
この突発事件によりまして、場内は騒然となり、特に壇上は淺沼代の救護と犯人の逮捕に当たった警察官その他の関係者及び報道陣で一時大混乱に陥ったのでありますが、淺沼氏は直ちに丸の内警察署のパトロール・カーによって近くの日比谷病院に収容されたのであります。しかし、関係者の必死の努力もむなしく、淺沼川は三時十分ごろついに絶命されたのであります。
五、刺殺された淺沼委員長の遺体が日比谷病院から自宅に向かうとき、右翼のトラックがその付近をデモリながら、淺沼の死は当然の報いで、天罰であるなどと叫び、淺沼委員長の死をいたみ、涙している多くの市民のまゆをひそめさせたということ。
それでどういうことであるかということでよく調べますと、千代田区内幸町の日比谷病院に入ったということがわかったわけであります。そこで病院をたずねまして診察に当った斎藤という医師から事情を聞いたわけでありますが、今お話のように負傷者は女子美術大学洋画部の四年生島田とも子でありまして、負傷程度は上右腕部骨折全治八週間である。
○参考人(中村五郎君) それに対して、よく事情を聞きまして、それで日比谷病院へ収容した、それでその後の状況をわかり次第、また追って知らせる。こういうような返事を受けました。
○亀田得治君 そういたしますと、零時ちょっと過ぎにそういう電話ですから、何時ごろ日比谷病院に入ったなどということはわかりませんね、そのときには。
その第四房において、その後しばらく時間がたって容態が急変した、そこで、日比谷病院に救急車で運び入れたと、こういう結果になっておることは、御承知の通りでありますが、そこで、それでは古田巡査が一人なぜ自分の責任を痛感するのか、私は、看守の立場にある者としましては、ことに若い巡査で、留置人が死に至るというような事故が起ったということは、これは非常なショックを受けたことは間違いないと思うのでございます。
呼吸が少し困難な状況もございまして、看守巡査は人工呼吸等の修練もつんでおりましたので、さっそくそういう手当をしつつ救急車を呼びまして、近くの日比谷病院に入院させるべく手配をいたしたのでございます。数分のうちに救急車が参りまして、応急手当をした上、日比谷病院に入院していただいたのでございますが、遺憾ながら零時三十分ごろ目比谷病院においてなくなられたと、こういう事案でございます。
急に頭が痛いといって頭を抱えて、長いすから落ちて、どこか頭でも打ったのか、急に変になったために、救急車を頼んで、そうして日比谷病院へ頼んで救急処置をとったけれども、ついに三十分になくなった、こういうふうに一人の刑事の方が奥さんに言っておられる。
ところが、第四房に移りましてからしばらくたったころでありますが、監督者が巡視をいたしましたときに、寺見氏が房のすみの方に中腰になって頭をかかえているので、どうしたのかと聞いたところが、頭が痛いという訴えがありましたので、さっそく房から出して様子を見ましたところ、容態が若干変でありますので、医者の手当を受ける必要があるというふうに考えまして、直ちに救急車を呼びまして近くの日比谷病院に連れ込んで手当をした
日比谷病院にて深瀬院長に面会し、夏川君の病状並びに提出診断書について意見を聴取し、東京営業所にて同好の西川忠一郎君に面会、夏川氏の居所連絡を依頼し、目黒の寮において夏川君に面会を行いました。その質疑応答の内容につきましては、委員会議録に載せますので、これを御参照願いたいと存じますから、御了承願います。 —————————————
○赤松委員長 夏川嘉久次君の病気につきまして、日比谷病院の院長深瀬周一君から診断書が出ておりまするので、稻葉君の御希望によりまして診断書を読み上げます。