2018-03-22 第196回国会 参議院 財政金融委員会 第5号
例えば、朝日新聞記者であった尾崎秀実、こういう人は近衛内閣の中枢に食い込んで、北進論、要するにソ連と対峙する北進論を抑えようというので、日支事変以降の戦争を長期化、拡大させようという世論の刷り込み工作と同時に、内閣の刷り込み工作、せん孔工作をやっておったという時代ですよ。
例えば、朝日新聞記者であった尾崎秀実、こういう人は近衛内閣の中枢に食い込んで、北進論、要するにソ連と対峙する北進論を抑えようというので、日支事変以降の戦争を長期化、拡大させようという世論の刷り込み工作と同時に、内閣の刷り込み工作、せん孔工作をやっておったという時代ですよ。
その後、日中戦争、いわゆる日支事変が勃発した一九三七年以降は一〇%を超えて上昇、第二次世界大戦が勃発した一九三九年には二〇%を超えたというふうに記録されております。
その後、日支事変、日中戦争に拡大して、一九三七年以降は一〇%を超えて上昇を続け、第二次世界大戦が勃発をしております一九三九年、四〇年頃に今言われましたとおり二〇%を超えたというように理解をしております。
○麻生国務大臣 満州事変から日支事変にかけて、続いて大東亜戦争、終わった後、太平洋戦争という名前になっておりますけれども、ここに、戦線が拡大していった背景というものに関しましては、これは実にさまざまな議論があるんだと存じますので、原口先生、ここで、この外務委員会で外務大臣として見解を述べるというのはなかなか難しいところだと思いますが、これに関して言わせていただければ、さきの村山談話でしたか、それからもう
それから、中国との戦争も初めの間、日支事変と呼んでいた。あるいは上海で起こった海戦隊の攻撃は上海事変とこう言った。そういうふうに、戦争という言葉が使えなかった。
それは、日本の本当に古いとしか言いようのない、しかも大変な国際問題を引き起こした日支事変、日中戦争の後遺症なんですよね。もういいかげんにそんなところは、あれは昔の話だと、今はもうきちっとしていると。 アメリカに聞いてごらんなさい、皆間に合っているよと言うに違いないんですよ。でも、その辺でうろうろされても困るから、じゃちょっと食糧でも持ってきてくれるかと、そんなことでしょう。
日本もそれを締結している一カ国なわけでありますけれども、その三年後には満州事変を起こして、そして日支事変が始まってくるころまでには、満州事変は侵略戦争であるという国際法的な解釈が一般的になっておりました。
しかも、マッカーサー憲法というのは、マッカーサーが一方的に押しつけたという形ではなくて、パリ不戦条約、そして満州事変、日支事変、大東亜戦争という形でたくさんの過ちを犯してきたということを考えて、そこで、戦争放棄とか武力不保持という世界史の中であらわれてきた理念みたいなものを受け入れる、そしてそれを積極的に遂行する。
同時にまた、あの日支事変の最中でございましたけれども、昭和十二年に斉藤隆夫さんが軍部の政治介入について批判的な発言をされた。それで、国会が除名処分にした。
日支戦争というのは、当時あれは日支事変と言っていた。あれは宣戦布告も何にもしていないんですよ。あれは陸軍のばかが行って——きょうは、それに対して反論する先生が時々いますからね。私は、あれは侵略戦争だと思っていますよ、はっきり言って。
昭和十二年、日支事変が始まる前が五六%というのでありますから、もう一息でいわゆる日中戦争の始まる前の大変な負担率に接近するわけでありますから、やたらに国債発行も言えない。にもかかわらず、四百三十兆円が足りないから十年計画の中であと百兆円ふやせ、こういう議論も一方で出ておる。 いや、行政改革はやりなさい。この前申し上げましたが、日本の公務員というのは世界で一番少ないのですね、正直言って。
日本は、大日本帝国という時代、つまり大日本主義を振りかざして戦争というものが起こり、満州事変、続く上海事変、日支事変と、戦争戦争と十五年間ずっと引っ張ってきたわけです。大日本主義に対して、自民党の大先輩である石橋湛山先生は、小日本主義でなければいかぬ、小日本主義であってこそ日本の繁栄はあるし日本国民の幸せがある、大日本主義をとるべきでない、こういうことを力説をされた。
それからまた、この問題の解決について中国の立場からすれば、これは太平洋戦争あるいは日支事変を通じて、中国は最後の平和条約のときに日本に賠償を求めなかったわけです。賠償を求めないで、極めて寛大な態度で日本の国を許してくれた、そういう経過もあるわけですね。そういう経過を踏まえた場合に、孤児の問題の対処について、訪日の直接の費用だけ持てばいいんだという考え方はちょっとどうかと思いますね。
○飯田忠雄君 そうしますと、大体これは過去における満州事変とか日支事変のようなものと考えられるわけでしょうかね。それとも、現在は本当は戦争だけれども国際連合の関係で戦争と認めないと、これその辺のところは御見解をお伺いをしたいんですが。そして、どちらにしても日本は中立国としての立場に立つのか、それともそうでないのか。
○江見公述人 本当に入場税、私も戦後四十年やったわけじゃございませんで、最近なんですけれども、入場税というのは御存じのように昭和十三年、ちょうど私が中学何年生かの、四年ぐらいかな、そのときに設けられたそうで、これは戦費調達という目的で、日支事変ですか支那事変ですかがきっかけだと聞いております。
この第四期、この時期における戦争は、日中戦争と言ってもいい、日支事変に始まった太平洋戦争と言ってもいいですが、この十五年間前後の戦争というのは侵略戦争ではなかったのかどうか、この辺の分析を臨教審はどうやられてきたのか。どうなんですか。
○国務大臣(海部俊樹君) 教科書のすべてに一貫してあの第二次世界大戦あるいは日支事変の問題については明快に記述がなされておりますし、その中にいわゆる国交正常化のもとになった日中共同声明の文言も明確に出ておりまして、日本はそのことの事実について責任を持って反省する、このことは児童生徒にも事実として教えておるわけであります。
○中曽根内閣総理大臣 八月十五日に私が参拝いたしまして、その後若干時間がたちまして中国側から反応が起きてきたわけでございますが、その反応の中の一つは、いわゆる戦犯、特にA級戦犯の方々が合祀されている、それは日支事変や太平洋戦争の指導者であったではないか、中国にも随分迷惑をかけた元凶ではないか、そういう方々が合祀されているところにお参りするということはいかがであるか、それは国民感情を傷つけるものではないか
総理、お聞きしたいのですが、満州事変と言われた中国侵略も日支事変と言われました中国全面侵略も、天皇の承認なしには行われることはできなかったわけです。太平洋戦争の開戦も天皇の名で行われました。治安維持法や軍機保護法、国防保安法、その他の弾圧立法も、天皇の名で裁可をされ、公布をされ、実行されたのであります。徴兵も天皇の名で行われました。
福田さんがお書きになっていた昭和十年という高橋是清さんが大蔵大臣のときのことは、日支事変というものを想定した膨大な予算の増額という軍部の要求が出た時期でございます。「軍事研究」というところが冒頭にこの日にちを取り上げておったようでありますけれども、少し年数が違うのでありますが、私はここに立派な書物を持っております。
○大出委員 九月の十八日に五九中業、つまり皆さんの言う新防衛計画が決定をされたわけでありますが、この九月の十八日、どうも私はこの九月十八日にひっかかるのですけれども、日清、日露の戦争があり、満州事変が起こり、日支事変が起こり、大東亜戦争、第二次大戦と言われるのでございますが、戦史に詳しい防衛庁長官にちょっと承りたいのですが、九月十八日というのは日本の戦史を振り返るとどういう日でございますか。